「巫女みこナース 愛のテーマ」が会社で大ウケしたので、次は「撲殺天使ドクロちゃん」をカラオケで歌ってやろうかと思っているのですが、内なる良心がそんなことはやめろと叫んでいます。
鈍感力で克服だ!
さて。鈍感力で思い出したのだが、自分はかなり鈍感力が強いと思う。特に恋愛関係の鈍感力は、他に類を見ない程の強力さがあるという自負がある。
それを裏付ける過去の逸話を一つ。
まだ大学生の頃。後半の、引きこもっていた頃の話である。とは言え、週2,3回のバイトだけはちゃんと行っていたので、完全なるひきこもりとは言えなかったかもしれない。理学部棟は歩いて15分かかったが、バイト先は歩いて5分もかからない場所にあったので、その差かもしれない。当時の琉大生ならたいがい知っていたと思われる、「赤マント」という店だった。
そのバイト先に、Yさんという同い年の女の子がいた。琉大の近くにある沖国大の学生で、背が高くて店長にデカ女と言われてた人だった。
バイト先の店長が「俺は軍雇用員になる」と言いだして店をたたむことになった。自分は4年生の4月、ようやく通学を再開して、研究室も辛うじて決まった頃だった。
最後の日に、みんなで赤マントでお別れ会をした。当時は琉大東口にカラオケボックスがあったので(今でもあるのかもしれないが)そこで二次会をし、そして解散という流れになったときに、誰かが言い出した。
「Iさん(=荒野草途伸)のお家が近いから、そこで3次会しよう。」
自分は、部屋が超汚いからと断ったのだが(事実その通りだった)、先輩のDさん(参考)はじめとして殆ど全会一致で否決されてしまい、私は部屋を片づけるため先に帰るため、全力で走る羽目になってしまった。ギアスをかけられたわけでも無いのに。
結局、たった10分あまりで連中は来てしまった。人間の棲み家ではなかった私の部屋が10分でろくな片づけが出来るはずもなく、一同はそのあまりの惨状に唖然としていた。だが、私は帰るなら今だといったが、誰一人帰らなかった。結局、男女合わせて5人くらい来た。その中に、Yさんもいた。
途中のことはどうでもいいので省略する。まあ、ごく普通の学生のバカ騒ぎと思って貰ってかまわない。
帰り際になって、Yさんが言った。
「けいちゃん(バイト先で、私はこんな恥ずかしい呼ばれ方をしていた)、また、来てもいい・・・?」
私は答えた。
「部屋汚いからダメ。」
汚いも何も、現にその超汚い部屋に彼女もいるのだから、この回答はあまりにも愚かだとしかいいようがなかった。何故、こんな馬鹿な返答をしたのかはわからない。もしかしたら、潜在意識から発せられた自分なりのギャグだったのかもしれない。
そして彼女たちは帰っていった。
それから2年あまり後。
私は大学を卒業し、しかし県庁の採用試験を受けるという口実で定職にも就かず、フリーター生活を送るフリをして、Keyの二次創作の世界にのめり込んでいた。それまで恋愛関係とか本当に、全く知識も興味もなかった自分が、ギャルゲーのおかげで少々色気づき始めた頃でもあった。
ある夏の日の、昼下がりだった。ふと、赤マント時代のことを思い出した。そして、Yさんのあの最後の言葉を思い出した。そして気づいた。
あれはもしかして、自分の人生の中で最も、「恋人」とか「彼女」とかいう存在に近づいた一瞬だったのではないかと。
それを、自分は、自らの手で、潰してしまったのだ。
しかも。それに気づいたのは、2年後。
もう手遅れだ。
さて。私の鈍感力が如何に強いか、解っていただけましたかな?
て言うかこんな力、一体何の役に立つというんですかねえ・・・?
ちなみに、Yさんがその後どうなったかは、全く知りません。同い年だからもう32のはずだし、たぶんとっくに結婚でもしてんでしょうね・・・。
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「思い出」カテゴリーアーカイブ
そういえばあの写真はどこに
大学生の頃、特に1年生の頃というのはとにかくヒマで、実験のレポートを書き終わると琉大東口近くの丘の上に昇って、中城湾の写真を撮りまくっていた。
使っていたのはだいたいレンズ付きフィルムで、別に良い写真が撮れたわけでもなく、何かテーマがあったわけでもない。ただ無意味に、ひたすら同じ風景ばかりを撮りまくっていた。
まさに、モラトリアムの為せる技である。
それでも、その後パソコンを買いインターネットの世界に入りどんどん引きこもり果てはオタの道を歩んでいったことを考えれば。それは随分健全な行為であったように思えるから、不思議でならない。
そんな12年近く前のことを思い出したのは、「琉大生はがき」という記事を見たからだった。
「゛琉大生はがき゛ブーム 学生デザインを商品化」(Yahoo-琉球新報)
自分みたいに、無意味にかどうかは知らないが、沖縄に来て写真撮りまくっていた琉大生は今も変わらずいたということか。ただ違うのは、撮って終わりではなく、それを商品化にまで結びつけてしまったところだが。
ちなみに絵はがきの公式ページというのもある。いくつか写真があるのだが、なるほど、確かに学生の頃見えた沖縄の風景というのが、そこにある。
今現在既に沖縄に戻ってきて、一年経って、「あの頃の空と今の空は、何かが違う。沖縄は変わってしまったのか」等と思うこともあったのだが。違うのだ。変わってしまったのは、きっと自分の目線の方なのだ。
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8年の時を経て
琉大の恩師のH教授が去年の3月に退官されたので、自分が旗振りをして当時研究室にいた面々でささやかにお祝いをした。
正確には、自分はH研に所属していたわけではなく、同じ講座で学生用の部屋を共有していたS研の所属だった(※1)。だが、まあ事実上同じ研究室のようなものだし、お世話になった事実には変わりないのでと、両研究室合同で食事会を企画したのだった。
一般的な大学の研究室というのは「講座」と同一であり、その中に教授-助教授-講師-助手というヒエラルキーを持った、複数の指導教官がいるものらしいのだが。当時の琉大物理学科の場合は、講座は少なくとも学生にとっては名目的なものとなっていて、殆どの教官が独立した「研究室」を持っており、単独で研究室の学生の面倒を見るというスタイルが採られていた。)
1999年の卒業であるから、殆どのメンバーが8年ぶりの再会であった。否、殆どと言っても自分を含めて4人だったし、うち一人は大学院まで出ているのでもっと短いのだが。自分も、半年留年というよくわからんことをしたり、その後もH先生とは年賀状のやりとりをしていたり(S研なのに)と、交流があったので、8年ぶりという感覚はなかった。
そういう事情もあって、今回自分が旗振り役をしたというのもあるのだが。(S研なのに。)
実際の所もっと参加対象者は多かったのだが。最初に話が出てから半年近く経っている上に2週間切って突然日取りや場所を決めたので、結局4人だけになってしまった。
まあでも、とりあえずH先生には喜んでもらえたようなので、それは良かった。
ちなみに、今回の会合は首里にある「あしびうなぁ」という店でやったのだが。この店は、学生時代交流のあったKさんという人から教えて貰ったものだ。そのKさんも、長らく(6年ぐらい?)音信が途絶えていたのだが、たまたまiAcnがmixiで見つけ出して連絡を取った過程で、この店を教えて貰ったものだった。
人脈が無いのが自分の短所だと思っていたのだが。昔の人脈というのは案外こうして息づいているものなのだなと、実感させられた今回のイベントであった。
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SB鼻毛の王子様
wikiで中国史を読みふけっていたらつい徹夜になってしまった。夜寝れないので発売されたばかりの「蒼い空のネオスフィア」をやっていたら、さらに徹夜継続になってしまった。
以来調子が悪い。徹夜が堪える歳ということか。
以前探偵ナイトスクープで、「ゴキブリの王子様」というのが取り上げられたことがあった。
「以前見た、真っ白で美しいゴキブリの王子様を捜して欲しい」という依頼であった。結局それは、脱皮直後でまだ色づいていない状態のゴキブリの事であった。確かにあの茶色いゴキブリに比べれば多少マシに見えるのかもしれないが、しかしゴキブリであることには変わりなく、特に美しいというほどのものではないのではないか、と思ったものだ。
以上、予備知識。
本題。
先日3/27付け文書に関して、「30過ぎると鼻毛に白髪が出来る」という情報が寄せられたが。実際の所、それに類するものは既に一年程前に経験している。
その時私は、自宅で鼻毛を抜いていた。鼻毛というのは、髭ほどではないが放っておくと結構伸びてくるものなので、切るか抜くかしないといろいろ不都合が起きる。いくらキモオタといえど、入浴と鼻毛の手入れだけは怠ってはいけないのだ。
その時抜いた一本の鼻毛。それは、色がなかった。白髪などというものではない。完全な無色透明だったのだ。物に例えれば、アクリル樹脂で出来た細い糸のようであった。
それは今まで見たことがないほどに美しい鼻毛で、私はそれを、きっと鼻毛の王子様に違いない、と思ったのだった。
私はその美しい鼻毛を妹に見せてやろうと思ったのだが、怒りを買って部屋から蹴り出されることは明白であることに気づき、途中で引き返して鼻毛をゴミ箱に捨てたのであった。
それ以来、鼻毛の王子様にはお目にかかっていない。
これはわたしがまだ20代の頃の話である。30過ぎてからこういうものに初めて遭遇していたら、きっとこのような感動的な体験とはならなかったのだろうなと思うわけで。そういう意味でも、若いうちに貴重な経験が出来たと思っている。
今日は早く寝よう。
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15年目の約束~時の濁流に泳ぐ魚
結論から言ってしまうと、二人しか集まりませんでした。
昨日の「15年目の約束」の、結果です。
寝過ごして11時過ぎに目が覚める。集まる日が万博開幕日、と聞いていただけで、具体的な時間までは聞いていなかったので、万全を期して朝から張り込んでおくつもりだったのだ。目覚ましを止めたところまでは記憶にあるのだが、それから再び起きるまでの記憶が、何故か無い。不思議なこともあるものだ。
慌てて着替えて、徒歩で中学校に向かう。家は学区のほぼ北端に位置し、中学校までは約2Km。うち半分は登り坂になる。なので、着く頃には息切れしていた。15年前は、毎日この道を歩いていたわけだ。そう、入学したての頃も息切れして、教室でぶっ倒れていた記憶がある。
陶芸部の活動場所は校内のはずれにある窯業室であった。が、そこに行く前に先ず職員室に行く。
最近学校に侵入する不審者が多いとのことなので、そういうのに間違われないように予め断りをいれておく。行ってみたら、15年前からずっとそこにいる先生がいた。しかもその人は、自分が小学生の頃にはその小学校にいた筈だ。
余談だが。小学校にいる頃、その先生が全校集会で忘れ物とおぼしき傘を掲げて、この傘は誰のものかと叫んだ。誰も名乗りでないので、彼は言った。
「いないのか? 誰の物でもないのか? だったらこの傘かわいいから、先生の恋人にあげちゃうぞ。」
1年後。彼は職場結婚した。
そんな要らん話をわざわざすると校外に追い出されてしまうかもしれないので。そういう話はせず、ただ「卒業生が窯業室前で集まることになっているので待たせて貰っていいか」とだけ話し、許可を得た。
向かう途中で、ジャージ姿の女子中学生の集団に遭遇。中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが。唐突に「こんにちは」と挨拶され、おもわず「ちわ」と中途半端に返してしまう。おそらくは人にあったら挨拶しろと教えられているのだろうが。しかし、自分らのことはそんなこと教えられたって絶対言うこときかないような所があったような気がする。最近の中学生は、意外と出来がよいのかもしれない。
窯業室には誰もいなかった。卒業生も、在校生も。現在の陶芸部員の活動でもついでに見れればと思ったが、いないのでは見ようもない。そもそも、部が存続しているかどうかすら怪しい。自分らがいた頃にはもう既に、存亡の危機にさらされていた部だったから。
その辺の話は、昔書いた桜落葉陶芸部という小説を参照されたし。ただし、これこそ本当に脚色が施されたものである。て言うか、そう言っとかないと関係者が見たら怒る。
部屋の前で本を読みながら待っていたら、中学生男子がやってきた。前述のように中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが、しかし教員でもないむさい男がいるのは当たり前ではない。彼は「あっ」と声を出し、忍び足でその場をゆっくり離れて行った。そして角を曲がったところで一気に走り去っていく音が聞こえた。職員室に通報でもしに行ったのかもしれない。
予め断っておいて正解だった。
13時前。誰も来ない。日本全国が低気圧に覆われ、真冬並みの気温といわれた日である。風が吹いて非常に寒い。
そろそろ撤収時刻を検討しなければならないなと思いつつ、ふと、あらかじめ電話なりで関係者に連絡をつけておけば、こんな当てもなく待ちぼうけることは無かったのではないかということに気づく。
気づいた時にはもう遅い。電話番号は調べなければわからないし、電話帳のあるところに移動すれば、すれ違いになってしまうリスクもあったからだ。「私はここにいる」と書いた張り紙でもしておこうかとも思ったが、紙もペンも持っていなかったし、そもそも無関係の中学生が見たら、変な学校伝説の要因ともなってしまいかねない。私はもう、これ以上伝説になるのはごめんだ。
それから約15分後。ようやく、一人の男が現れた。何となく見覚えはあるのだが、しかし全然関係ない人間かもしれない。お互い牽制し合うかのように無言で1分ほど立ちつくした後に、名を名乗りあってようやく、待ち望んでいた関係者であったことが判明した。
ちなみに彼は、前述の「桜落葉陶芸部」でBのモデルとなった男である。
しばらく二人で話しながらその場で待機していた。
彼は東京で汎用機系のシステムの仕事をしていて、月労働時間が300時間あるのに残業代が出なくて月の手取りが18万しかないと言っていた。とりあえず転職を勧めておいた。というか、彼はこの日のために、就職して以来初めての有給休暇を取り、わざわざ東京からやってきたのである。凄い話だ。
14時過ぎ。それ以上待ってももう来ないと判断し、撤収。とりあえず二人で近所の喫茶店に移り、「二人しか集まらなかった」というこの事態の検証に入る。結果、「15年という時間を掛けた、壮大な『釣り』だった」という結論で合意した。
まあしかし。例え本当にそうだったとしても、別に悪い気はしない。これによって手に入れた15年の時の重み。これは、釣られたものにしか手に入れることが出来ないものなのだから。
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15年目の約束
いよいよ明日から愛知万博開催。荒野草途伸自身は万博に行く予定はありません。が、万博絡みの予定は、一つだけ入っています。
今から15年前。名古屋五輪の誘致に失敗した愛知県は、今度は万博の誘致に動き出し、テーマを「産業と技術」、会場候補地を瀬戸市海上(かいしょ)町の県有林一帯(現在の万博瀬戸会場とその周辺)に設定しました。
これは地元にとっては寝耳に水の話で、しばらくは半信半疑で話題に上ることも少なかったのですが。次第に、会場予定地近くの市南部の住民から、混雑による生活被害などを不安がる声が出始めました。
さらに、万博開催に合わせて建設する高速道路が、市東部の森林地帯を通り、インターチェンジが二つ造られるという話になって、「環境破壊ではないか」「閑静な住宅街の近くに高速道路が出来るのは困る」という声が上がり始めます。
その上、会場予定地である海上町近辺で、天然記念物で国内希少野生動植物に指定されているオオタカの巣が確認され、環境破壊だとの声が一気に高まります。
万博計画は、それまで政治的に目立った対立の無かった瀬戸市を二分する大問題となり、さらには愛知県知事選での争点にまで発展していきました。
この辺の政治的な話については、荒野草途伸が2000年に書いた文書があるので、参考にしていただきたい(主観的視点で書いたものなので、若干正確さを欠く部分があることはお断りしておきます)。
その後紆余曲折を経た後、万博のテーマは「環境と自然」になり、主会場は海上の森から南に約5Km離れた愛知青少年公園を利用することとなりました。
まあ、そんな万博開催の経緯は置いといて。
万博会場が最初に発表された15年前。荒野草途伸は、高1でした。既に高校生ではありましたが、たまーに中学自体所属していた陶芸部に顔を出していました。ダッテホカニトモダチイナカッタカラ。というのは1割ぐらいしか真実ではないのですが。
そうやって顔を出していた時に、持ちかけられた話があるのです。
「15年後。万博開催初日に、またここに集まろう」と。
その当時は、「15年後・・・30目前・・・それまで自分は生きてるのか?」などと思い、また「まあ間違いなく忘れてるだろうな」とも思いました。
15年経った今。その約束は、少なくとも自分の記憶にはちゃんと残っていました。
とりあえず明日は、10余年ぶりに中学校まで行ってみることにします。誰か一人でも、記憶を共有している人がそこにいるといいのですけど。
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1987年の12月、僕達はあまりにも無能でした
1994年、19歳、浪人生。予備校で自習。
1995年、20歳、大学生。風邪ひいて寝てた。
1996年、21歳、大学生。バイト先の飲食店。
1997年、22歳、大学生。バイト先の飲食店。
1998年、23歳、大学生。研究室で過ごす。
1999年、24歳、無職。 バイト先のコンビニ。
2000年、25歳、会社員。会社で残業。
2001年、26歳、会社員。会社で残業。
2002年、27歳、会社員。会社で残業。
2003年、28歳、会社員。会社で残業。
正直、思い出すのに一苦労だったが。過去10年間の、12月24日の過ごし方は大体こんなんだった。まあ要するに、いわゆる世で言うところの12月24日的過ごし方は、した事がないわけだ。
「まあ別にしたいとも思わないしー」と、数年前までは本気でそう思っていたのだが。最近自分も俗者化してきたのか、人並みの12月24日的過ごし方をしたいなどと考えも出てきた。
とは言っても。29年間そういうものを求めてこなかったにもかかわらず突然人並みの幸せが欲しいと言い出したところで、手に入るはずもなく。しかも今年は会社辞めちまってまだ次の職が決まらないから、これと言った予定もない。
因果というのはこういうのを言うのだろうか。自分は仏教信者じゃないし、ましてや12月24日は仏教イベントなどではないのだが。
ところで話は変わるが、来週から単発の仕事をいれた。2週間。某新聞社系の派遣会社の紹介で、最初はHTMLのタグ打ちの仕事だったのが、なんか知らんが先方から断られてしまったので、代わりにデータ入力の仕事を紹介された。
だからと言うわけではないと思うが、そこで出しているパソコン雑誌を、二つも貰った。待合室に置いてるけど誰も読まないから、という事だった。決して奪い取ったわけではない。2回目に打ち合わせのために行ったときには、何も言ってないのに「まだ新しいのは来てないですねえ」等と言われて、大変恐縮した。
まあ何はともあれ。来週から2週間、25日までは、仕事の予定が入ったわけだ。
イヨッシャァ、これで24日は埋まったぜ!!!
ナンカチガウ。
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