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愛知万博

 新聞をよく読んでいる人はすでに知っていることではあるはずだ。BIEが、ついに、というか、やっとというか、愛知万博に「NO」を突きつけてくれた。BIEはフランスにあるから、NONというべきか。どっちでもいい。とにかくあの計画に歯止めをかけてくれさえすればいいのだから。
 詳しい説明は、新聞やネット時報に譲る。なお、asahi.comにその全文が掲載されている。

 一般的に見れば、これは高まる国際環境保護運動の流れや、日本国内で巻き起こる公共事業批判の結果であり、吉野川や諫早湾・川辺ダムといったものと同じようなあつかいであろう。しかし、自分にとっては、この出来事は非常に感慨深いものがある。なにしろ、愛知万博は自分が高校生活のうち2/3を費やした「青春の記録」だからだ。

 愛知県の鈴木知事(当時)が「愛知県で万博をやるぞお!」などとたわけたことを言い出したのは、1988年のことだった。当初は、「またバカなこと言ってやがるこのオヤジ」くらいにしか受け取っていなかった。おそらく県民みんなそう思っていただろう。何しろ、名古屋オリンピックを市民パワーでぶっつぶした実績があったからだ。ちなみに自分は、原因不明の病による入院生活から、ようやく学校復帰した頃であった。バブル全盛の頃であった。トヨタ自動車は世界一の企業だった。
 1990年。ゴルバチョフの改革路線がめぐり巡って東欧の独裁政権を次々と倒していったこの年。愛知万博の開催候補地が発表された。海上の森。瀬戸市南東部にある里山である。
 この決定は、誰にとってもいろんな意味で衝撃的であった。特に、瀬戸市民の衝撃は大きかった。まず、誰もが最初は信じなかった。信じなかったから、反対運動も起きなかった。しかし、どうやら「礼治は本気らしい」という認識が広がり、徐々に賛成・反対両派の結成が始まっていった。
 海上の森が候補地になった理由は様々あったらしいが、主なものは以下の二つであろう。「1.海上の森周辺が、広大な遊休県有地であった。」「2.すぐ近くを、愛知環状鉄道(県が出資する第3セクター、単線。ちなみに環状線ではない)が走っている」ということだろう。開発至上主義の鈴木県政としては、未開発の県有地が残っているということは許し難いことだったろう。愛環の方も、単線のままでは格好が付かないということで、複線化したがっていた。しかし、これらの事業を県単独で行うには、あまりに金が足りない。そこで思いついたのが、「万博開催による国からの事業費引き出し」だったわけだ。

 当初この計画は、通産省からも剣もほろろの態度で扱われるようなシロモノだった。目的が土地開発であることが見え見えだったし、何より「万博」を開くための大義名分もなかった。わずか一年前に「名古屋デザイン博」が開かれたばかりでもあった。ところが、リクルート事件が事態を変えてしまう。めぐり巡って首相の座に着いた河本派の中堅議員海部俊樹は、愛知県選出であった。選挙区は愛知3区(一宮市中心、当時)で、瀬戸市(愛知2区、当時)は地盤でもなんでもなかったが、「県選出の首相」ということで県庁が熾烈な陳情攻勢をかけ、ついに「首相決断」で愛知万博を国のプロジェクトにしてしまった。ちなみに海部俊樹は、沖縄県の軍用地強制収容に絡んで太田知事(当時)を解任しようとしたこともある人物だ。そういうわけで、自分は海部俊樹は嫌いである。
 これにより、万博開催は一気に現実味を帯びてきた。万博に対する、賛成・反対両派の色分けも進んでいった。だいたい、市東部に住む人は反対、西部が賛成という状況だった。南東部は万博開催地そのものであり、生活領域が万博によって荒らされることに強く反発していた。北東部は開催地とは離れてはいたが、当時同時に計画が進んでいた東海環状自動車道(これを造るために万博を開くのだ、という説もあった)への反対運動が起きていたこともあり、南東部への共感意識があったのだろう。
 市西部は、そのころすでに住宅地・商業地としての開発がほぼ完了していた。愛環が通っていたのも、西部である。だから、「地元で万博やるなら」という郷土意識や、「愛環が便利になるなら」という実利面から、賛成する人が多かった。
 人口比では、西部は東部の2倍以上あった。だから、市全体では賛成派が反対派を大きく上回ることになる。政治レベルでも、県政・市政共に政権与党であった自民・社会・公明・民社が賛成に回り、共産党は立場保留。反対派の受け皿になる政治的素地はなかった。
 そのころ自分は、瀬戸西高校に入っていた。瀬戸「西」とはいうものの、地理的には中南部に位置し、東部から通う生徒も多かった。賛成・反対の勢力はほぼ拮抗していた。そんな中、私は郷土研究部の部員として、「万博」を手がけることになる。手がけるといっても、きちんと調査・検分などをやったわけでもなく、どちらかというと「問題提起」という性格のものであった。その過程で、私個人としては「万博の青少年公園開催」という結論に達する。この青少年公園案は、反対は勢力からも提起され、現実的対案として賛成派側知識人の評価も得るが、鈴木県政はこれを無視し続けた。

 反対派総手詰まりの中、万博計画は着々と進められていった。心情的反対派の中にも、「やるだけ無駄」というあきらめムードが広がっていた。その流れが変わったのが、1991年の統一地方選であった。反対派は、候補者を一人も擁立できず、市長は現職の無投票当選、県議選も賛成派同士の争いという、「不戦敗」がほぼ確定した選挙、のはずだった。
 ところが、告示日当日締め切り間際、突如一人の市職員が立候補の届け出をする。祝勝会の準備をしていた現職陣営は大混乱に陥り、情報収集に追われた。その人、酒向英一氏は、全くの無名・無組織・無資金であった。にもかかわらず、そのセンセーショナルなデビューと「反万博」というスローガン、画用紙にマジックで書かれた選挙ポスターといった要素が若年層を中心に爆発的な支持を得る。「酒向さんの退職金を取り戻せ」(選挙の供託金として、市職員を辞めた退職金が充てられたという噂が流れた。というか、それ意外考えられなかった。)が合い言葉となり、結果として酒向氏は、法定得票を大きく上回る25%の得票を獲る。後にこの選挙結果は、全国系マスコミによって「無党派ブームの一環」として青島ノック現象と同列に定義されてしまうが、実体はそんな軽々しいものではなかった。少なくとも自分はそう思う。
 この選挙を境目に、賛成・反対両勢力の力関係は激変する。市南西部の「名古屋通勤世帯」を中心に反対派の主張が浸透し始め、共産党市議団も反対を表明する。しんあいち等の市内コミュニティ紙も、反対派の活動を積極的に取り上げるようになる。県全体でも、中部新空港・東海環状自動車道・中央リニアそして万博といった大型開発だらけの鈴木県政に疑問符を抱く人が増え始めた。

 反対派の裾野は、確実に広がりを見せていた。だが、その内部は対立抗争だらけであった。否、「内部」という言葉など最初から無かった。環境派・市民運動層・新左翼・共産党といった勢力が、それぞれ勝手に反対を唱えて行動していた。1995年の愛知県知事選では、共産党系と新左翼・市民運動相乗りの予備校講師が両立し、現職に惨敗する結果に終わる。瀬戸市長選も同様の構図で争われ、「反対派」の得票総数は前回の酒向氏の得票を上回ったものの、選挙結果としては現職の完勝という結果に終わった。両選挙で、共産党系と市民運動系候補は、現職批判そっちのけで同じ反対派のはずの候補を攻撃しあうという醜態を見せた。唯一の救いは、市議選に出馬した地元環境派系候補が当選し、市議会内の反対派勢力が4に増えたことだろう。
 ちなみに、同時に行われた県議選で、前回市長選に立候補した酒向氏が挑んだ。結果は四位(定数は2)とはかばかしくなかったが、他陣営に与えた精神的負荷はかなり大きかったようだ。そのときの選挙で当選した自民党県議が選挙違反をやっていたことも、その現れであろう。
 そのころ私は2年間の浪人生活にようやく終止符を打ち、沖縄移住を決めていた。その年の統一地方選は私にとって始めて投票できる選挙になるはずだったが、その移住計画のために結局投票できなかった。私がこれまでで唯一投票しなかった選挙である。

 その後、万博計画は順調に進む。通産省の指導もあって、万博の目的は「自然との共生」と改められ、万博終了後は自然公園とする、という条件でBIEの仮承認を得る。この間、反対派勢力はBIEに万博開催の欺瞞性を訴える手紙を送り続けるが、BIEはこれを無視し続けた。また、統一地方選と同じとしに行われた参院選では、「万博反対」を唱えた(正確には、情勢を見てそう言うようになった)タレント候補が当選する。だが、当選直後この候補は前言を翻し、万博賛成派に転身。その後自民党に入る。反対派冬の時代であった。

 だがその一方で、反対派は水面下で着々と動きを見せていた。共産党の勢力拡大に伴い、党中央が「無党派との連携」を打ち出す。これを受けて瀬戸市でも共産党支部と地元環境派が連携の動きを見せる。この流れに沿って、共産党県本は1999年の愛知県知事選での環境派系の大学教授片山氏の推薦を決める。
 また、長良川河口堰や諫早湾干拓といった大型公共事業への批判が世論の主流となり、万博反対派に追い風となり始めた。逆風を感じた鈴木知事は、今期限りの引退を表明。万博を待たずに県庁を去ることになった。その後継者選びを巡って特に民主党内が大紛糾する。結局一宮市長の神田氏の立候補が決まるが、全県的な知名度も低く、明らかに出遅れの選挙であった。そして、片山氏が、得票の4割を占める。五大都市圏で最も共産党が弱かった愛知県でのこの得票は、まさに歴史的であった。
 この勢いに乗って、共産党と環境派は県議選瀬戸市区で統一候補擁立を決定。市東部出身の共産党市議に白羽の矢が立った。前回選挙で選挙違反を出した自民党は、前回新進党から立った元職を擁立、自由党も現職が立ち、三つ巴の大激戦となった。東部・万博反対票を固め、市議として20年以上の実績を持つ連合候補の当選は確実といわれ、自民・自由両党候補の陣営はそれまでに無い危機感を抱いた。
 だが、結果は連合候補の惜敗に終わった。勝利を確信していた共産党支部は精神崩壊に陥り、「市長選は不戦敗だ」と公言するほどであった。結局辛うじて公認候補を擁立するも、結果は惨敗であった。
 このあたりの事情は、私自身が収集したものではなく、つてを頼って間接的に集めた情報である。私自身はといえば、自分のことで精一杯であった。

 その後、新知事に就任した神田知事が、「青少年公園との分散開催」を宣言する。愛知青少年公園は、海上の森の南西にあり、博覧会を開くに十分な広さを持っている。かなり以前から、反対派は「青少年公園で万博を」と主張していたが、愛知県側はあくまで海上の森での開催を譲らなかった。神田氏は、元々無党派候補として一宮市長に当選した経緯があり、当選直後から反対派との対話路線を打ち出していた。その結果としての分離開催であったが、あくまで海上の森が主会場である、という県の姿勢は変わらなかった。

 そして、秋。記事によれば、それくらいの時らしい。BIE理事によって、通産省官僚への「糾弾」が行われる。会話の経緯からは、通産官僚も海上の森案への疑問を隠してはいない。それはそうだろう。元々通産省は、この計画に乗り気ではなかったのだ。今回の暴露記事も、案外通産省からリークされたものかも知れない。

 そして自分。何もしてはいない。ただ生きることに汲々とするのみ。結果は出せなくても、とにかく走り回っていた高校時代、そんな過去をただ抗して書き連ねるのみ。
 時代は、動いている。若い頃自分が思い描いた姿に、少しづつではあるが近づいている。だが自分自身は、その代償とされたかのように無為な日々を過ごす。否、代償であるならば、それも良い。だがそうではない。自分には何ら関係のないところで、事は進んでいるのだ。
 いいだろう。それでも良い。そう思うしかないだろう。世の中がよい方向に向かっているのだ。喜ぶべき事じゃないか。そして自分の青春も、終わりを告げようとしている。そういう事だ。
少年は誰しもいつかは老いて、そして死に逝く。そんなことを考えさせる、私にとっての一つの事件であった。

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