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Wikipediaには書かれない伊勢湾台風の話


 高校生の頃図書館にあった愛知の政治史という本に載っていた話。何しろ読んだのが20年以上前なので、多少記憶にずれがあるかもしれないことは予め前置きしておく。

 1959年(昭和34年)9月、紀伊半島東岸沿いに被害を及ぼした「伊勢湾台風」が襲来し、愛知県にも甚大な被害をもたらした。
 参考:Wikipedia「伊勢案台風」

 台風そのものの詳細な情報は、上記の記事に譲る。Wikipediaの記事にはあまり詳しく記されていない事を書く。

 この時名古屋市南部から愛知県西部にかけての干拓地帯は、海抜が低いこともあって家屋が丸ごと水没するなどの尋常ならざる被害が出て、溺死者が大量に出た。辛うじて生き延びた者も、食料も衣類もない中でこのままでは数日後に死ぬという状況に追い込まれた。

 当時、東京の中央政府は岸内閣の時代であった。
 この当時は今のように通信網が発達しているわけでは無く、加えて台風によって愛知県内の電話線網が破壊されてしまった為、岸政権は被災状況をあまり詳しく把握していなかった。60年安保闘争の前年の年でもあり、政局に明け暮れていた岸政権・自民党は救援の為の行動を全く取ろうとしなかった。

 この時、何もしない自民党政権の代わりに、独自に被災情報を掴んた二つの団体が動いた。創価学会と共産党である。

 両組織は近隣の支援団体を通じて支援物資を集め、被災地で救援活動を始めた。それぞれ独自で動いていた為活動範囲がかぶることもままあり、当初は衝突もあった。が、この当時は今ほどは創価学会と共産党の対立は激しくなかった為、暫くして、区域を分けて両者が救援活動を分担することになった。
 東側(名古屋市の南区・熱田区・港区)は共産党、西側(名古屋市中川区や現在の弥富市域など)は創価学会が分担することになった。

 何日か経って、ようやく東京への電話線が繋がった。東京への電話をかけた担当者は、相手が電話に出るなりこう叫んだという。
「早く助けてくれ!」
 と。

 その後東京政府の支援活動が始まるものの、先に支援活動を始めていた創価・共産の両団体から引き継ぎをすることも無く、現地の実情を全く無視して東京の指示だけで動くだけであった為、全く意味の無い、むしろ生活の足を引っ張るようなことばかりしていた。結局、被災住民は東京政府では無く先に現地入りしていた両団体の支援を受けなければ生活できない状態であった。

 結果、被災地では自民党への反感と同時に公明党・共産党への支持が高くなった。
 中川区は現在でも公明党の牙城であり、港区や南区は愛知県議選で30年近くにわたって共産党の指定席状態であった。

 また、他都道府県では戦争とも不倶戴天とも揶揄されるほど公明党と共産党の仲は悪いが、愛知県ではそこまでは仲は悪くない。
 55年前の連携の記憶が、今もどこかで息づいているのかもしれない。


19年前


19年前。浪人生。時の政権は村山内閣。センター試験の翌日、阪神大震災。2月、荒野草途伸琉大受験、初沖縄入り。3月上旬、琉大合格。合格したのは他に神戸の甲南大学1校のみ。前年夏には松本サリン事件、この年3月に東京地下鉄サリン事件。地下鉄サリン事件の当日、琉大入学手続きのため沖縄に飛ぶ。3月27日、荒野草途伸二十歳。翌4月の統一地方選、沖縄転居が決まっていたため投票出来ず。初投票は7月の参院選に持ち越し。愛知万博反対派の酒向英一氏は惜敗。当時セーラームーンはSシリーズ、最終回を見て沖縄に転居。SSシリーズは10月のQAB開局まで見れず。6月、社会学の課題でHT君・iAcnと共に沖縄県平和祈念資料館に。9月、在沖米兵による少女暴行事件が発生。地元紙がすぐに載せなかったため同級生誰も知らず、わざわざ朝日取ってた自分だけが知ってた。革マル系自治会メンバーだったNさんに新聞もってかれそうになる。10月21日、沖縄県民総決起大会。同じ日に物理学科の懇親会。iAcn飲み過ぎで潰れる。翌日行政書士試験、復活したiAcnに送って貰う。12月、行政書士試験合格。Windows95日本語版発売。当時社会党は新党名を公募していた。冬休みは短いので実家帰らず。というかシムシティにハマって帰れる状態じゃ無かった。

 翌年1996年、村山内閣は退陣し橋本内閣に交代した。SACO合意などの実績は残すものの、沖縄をめぐる政治は長い迷走の時代に入る。1996年に行われた小選挙区比例代表並立制導入後最初の総選挙では、新進・民主両党が低迷する中、共産党が小選挙区2議席を含む26議席を獲得し躍進した。
 
 
 そして19年の月日が流れた。

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古い記事ばかりでもなんか寂しいので、一昨年の秋に友人に送ったメールでも転載しておく。


一応事実を書いてあるつもりだが間違ってたらすまん
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愛知県は天下のトヨタはじめ製造業が超強い土地柄なんだけど、
(INAXとかカゴメとか日本ガイシとか日本車輌とか)
五大老のリスト見ればわかるように、製造業が1つも入ってない。
特にトヨタは、本社が名古屋市内に無いこともあって五大老から激しくつまはじきされてた。

そういうわけで、トヨタは反中日新聞で、親朝日新聞だった。
(その所為か、自分が高校生ぐらいの頃は朝日は愛知県では地元紙扱いだった。
今はすっかり勢力が衰えちゃったけど)

セ・パが分裂した頃、
「朝日新聞社を名目オーナーに、名古屋にパリーグの市民球団を作ろう」て
運動があった。
ところが、中日新聞社が五大老の力を借りてこれを潰してしまった。
経営戦略としてライバルを潰しにかかるのは当然…とは言え。

ちなみに、当時中日新聞社は読売新聞と提携していた。
(だから読売は80年代まで名古屋に進出してこなかった。)
で、読売新聞が日テレ系列局を作ろうと名古屋テレビを設立した。
中日新聞はライバル社がテレビ局作るのをことごとく潰してきたのだけど
(典型例が岐阜放送。本来朝日系の中京広域県局になるはずだった。)
名古屋テレビは読売系ということで妨害しなかった。
けど名古屋テレビは経営上の理由からNET(現:テレビ朝日)との
クロスネットになった。
その後UHF局が一斉開局になって、名古屋には中京テレビが出来ることになった。
筋からいえば、名古屋テレビが日テレ系単独ネットになって、
中京テレビがテレ朝系になるはずだったのだが、
名古屋テレビの筆頭株主だったトヨタが「朝日でなきゃいかん」と言って
名古屋テレビは読売資本なのにテレ朝系になってしまった。

CBC(中部日本放送)は、その名の通り中日新聞(元は中部日本新聞)の直営局として
設立されて、当初は日テレとTBSのクロスネットだった。
しかし当時はTBSが圧倒的に強かったので、CBCはJNN協定もあって
TBS単独ネットになった。
これに機嫌を損ねた中日新聞は、この後東海テレビ/東海ラジオの方に肩入れするようになった。
それでも中日戦の中継権はCBC・東海で半々で分け合っていたのだが、
CBCが毎日新聞に接近した為に資本引き上げ、
さらに中日戦の中継権を奪い取ってNHKやテレビ愛知に割り振ってしまった。
ただ、CBCはCBCで独自にブランド力を築いており、
さらに中日新聞が東京進出(東京新聞)したのをきっかけに読売新聞が
中日新聞社との提携を解消して名古屋に攻め込んできた為、
結局中日新聞側が折れてCBCは中日戦の中継権を取り戻した。
この件もあってか、中日新聞はTBS・毎日新聞と少し仲良くなり、
後のMXTV開局に繋がっていく。
(MX開局にはTBSが全面協力しており、開局前にはTBSでCMが流れるほどだった)

中日直系となった東海テレビ/東海ラジオは、やはりトヨタと仲が悪く、
日産がスポンサーである人気看板番組の公開収録を栄地下街の広場で毎週行うなど、
トヨタへの挑発行為を続けていた。

トヨタと五大老・中日新聞は犬猿の仲のままだったが、
国鉄民営化でJR東海が誕生したことで、情勢が若干変化。
それまで五大老の一角である名鉄憎しから徹底的に反鉄道だったトヨタが
軌道修正して、JR東海とは経営陣が頻繁に交流するようになった。
その後Jリーグがスタートして、トヨタは名古屋グランパスの筆頭株主になったが、
中日スポーツはグランパス徹底無視の編集方針を採った。
(代わりに、朝日系の日刊スポーツがグランパスを積極的に取り上げた)
逆に、静岡の中日系局であるテレビ静岡を清水エスパルスの筆頭株主にして、
グランパス潰しを謀った。
グランパスの本拠地だった瑞穂運動場は人工芝すら無い雨が降ると池状態になる
酷いグラウンドだったが、一向に整備されなかったのも五大老・中日の圧力だと言われる。
(結局グランパスは、トヨタのお膝元である豊田グラウンドに事実上本拠地を移した)

一方、当時中日球団の本拠地だったナゴヤ球場の最寄り駅は
名鉄ナゴヤ球場前駅(現山王駅)だったが、JR東海がJR貨物の路線と設備を借りて
ナゴヤ球場の目の前にナゴヤ球場正門前という臨時駅を設けて、
中日戦開催日だけ名古屋駅から臨時列車を走らせるという行動に出た。
これに対し、名古屋経済界は即座に大曽根の三菱工場跡地にナゴヤドームを建設し、
わずか数年で完成させて中日球団の本拠地を移してしまった。
(但し大曽根は元々国鉄の駅前街なので、一概にJR潰しとも言えないが)
ちなみにナゴヤドーム計画にトヨタは一切関与せず、代わりに三菱の支援を得た。

その後、金融危機で東海銀行は三和銀行に吸収(UFJ銀行)され、
名鉄は岐阜-豊橋間の路線競争でJR東海にボロ負け、
松坂屋もJR東海が名古屋駅に作った高島屋に押されて衰退、五大老の威光は崩壊した。
当時計画されていた愛知万博・中部空港計画は、激しい反対運動があったこともあって
頓挫状態になり、愛知県が共産県政になる一歩手前にまで追い込まれた。
中部経済界はやむなくトヨタ・JR連合に頭を下げて、
中部空港はトヨタが経営、愛知万博もトヨタ・JRが前面に立って運営することになった。
(但し、中部空港には名鉄の他にJR武豊線を電化・延伸して乗り入れさせる予定だったが、
JR東海は結局手を付けなかった。)

中部経済界の主導権を握ったトヨタは、名古屋回帰路線に転じて
東京本社の機能を名古屋駅前に移転することを決定。
老朽化していた毎日新聞中部本社ビルに目を付け、買い取りを持ちかけるが、
毎日新聞は売却を拒否し、代わりに新高層ビルの共同経営を提案した。
こうして出来たのがミッドランドスクエアである。
(なので、ミッドランドスクエアの地主は毎日新聞社である。)

この経緯もあって、トヨタは朝日新聞から毎日新聞にシフト。
トヨタの後ろ盾を失った朝日新聞は愛知県での勢力を一挙に失い、
結果愛知県の現在の新聞販売数は中日新聞が圧倒的シェアを握っている。
一方毎日新聞は、中京圏での自前販売店を全面撤退させて中日新聞販売店に委託させている。
(元々中京圏のシェアは低く「新聞は副業」というのが毎日新聞中部本社の実態だった)

ただ、中日新聞とトヨタが和解したという話は聞かない。

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ちなみに現状を補足しておくと
TPPに関して、トヨタは推進の旗振り役であり、安倍首相がTPP交渉参加を決めた際にはトヨタの社長に直接報告したくらいである。
なので、トヨタと組んでいる毎日新聞も当然TPP大賛成である。

一方の中日新聞は反TPP派の急先鋒。最近は共産党と仲がいいらしい。

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HIGASHIYAMA LINE


 万博が開催されている所為なのか、名古屋駅は外国っぽい人でいっぱいだ。
 どういうわけか郵便局のATMにまで並んだりしているのも見受けられるのだが、あれはシティバンクの口座から現金を引き出したいという事なんだろうか。日本はクレジットカードの普及率が悪いからねえ・・・。特に交通機関なんか、千円札がないと話にならんし。
 まあ決済の事もそうなんだが、つくづく日本というか名古屋がよそから来た人に不親切だなーと思う事があった。
 まだ先月の、万博が始まって数日の頃の話だが。名古屋駅の地下鉄11番出入口で、アフリカ系の人と遭遇した。アフリカのどこかの国から来たのかもしれないし、アメリカかもしれない。ハイチやフランスかもしれない。それはわからない。どこに行くつもりだったのかも、正確にはわからない。彼は英語しか話さず、私はかつて受験英語の偏差値が30台だったからだ。
 ただ、言葉の中に「HIGASHIYAMA LINE」というフレーズが出てきたため、「ああ地下鉄東山線に乗りたいんだな」という事だけは分かった。「このまま改札に入れば、乗れますよ」と言おうとして、はたと気づいた。指さそうとした先には、「桜通線」と書かれた看板しかなかったからだ。
 名古屋市営地下鉄名古屋駅というのは、東山線の名古屋駅と桜通線の名古屋駅がある。(詳細はリンクをたどっていただきたい)。とは言え、よその都市の地下鉄もそうだと思うが、双方の「名古屋駅」構内の連絡通路で繋がっており、どちらの入り口からでもたどり着けるようにはなっている。ただし道順を知っていれば、であるが。
 件の11番出口には、その道順を示す案内設備が不十分なのだ。自分は地元の人間だから「まあ適当に歩いてりゃそのうちたどり着く」と思えるが、よその土地、しかも日本語も不案内な外国人にそれは酷というものであろう。
 私は一旦そこから出て、東山線側の入り口まで案内する事にした。
 だがこの時、「東山線の入り口まで案内します、階段を上がりましょう」と言いたかったのだが、これを全く英訳する事が出来ず、Go Up Here Withなどと、意味不明の単語を並べ立てる結果になってしまった。当然彼は首をかしげていたが、私が腕を振って踊るように階段を上っていくのを見て、ついて行けばいいと理解したらしい。
 地上に出て、「東山線 HIGASHIYAMA LINE」と書かれた看板が見えるところまで来て、私は叫んだ。
「It’s! It’s! Here is HIGASHIYAMA LINE! We,we arrive the world…」
 It’sはともかくwe arrive the worldって一体何なんだか。全く以て意味不明である。だがそんな怪しい言葉を吐き続ける私に対し、彼は肩を叩いて「Thank you.」と言ってくれた。辛うじて、目的は達せられたのだった。
 とまあ、こんな一件があったわけである。だがそもそも案内が充実していれば、彼はこんな怪しい日本人に頼らずとも東山線に乗れたはずなのである。
 地方都市全部を英語対応化する必要は確かにないと思うが、しかし万博やるんだったらもうちょっとよそ者に親切にしてもなあ、と思うのである。
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15年目の約束~時の濁流に泳ぐ魚


 結論から言ってしまうと、二人しか集まりませんでした。
 昨日の「15年目の約束」の、結果です。
 寝過ごして11時過ぎに目が覚める。集まる日が万博開幕日、と聞いていただけで、具体的な時間までは聞いていなかったので、万全を期して朝から張り込んでおくつもりだったのだ。目覚ましを止めたところまでは記憶にあるのだが、それから再び起きるまでの記憶が、何故か無い。不思議なこともあるものだ。
 慌てて着替えて、徒歩で中学校に向かう。家は学区のほぼ北端に位置し、中学校までは約2Km。うち半分は登り坂になる。なので、着く頃には息切れしていた。15年前は、毎日この道を歩いていたわけだ。そう、入学したての頃も息切れして、教室でぶっ倒れていた記憶がある。
 陶芸部の活動場所は校内のはずれにある窯業室であった。が、そこに行く前に先ず職員室に行く。
 最近学校に侵入する不審者が多いとのことなので、そういうのに間違われないように予め断りをいれておく。行ってみたら、15年前からずっとそこにいる先生がいた。しかもその人は、自分が小学生の頃にはその小学校にいた筈だ。
 余談だが。小学校にいる頃、その先生が全校集会で忘れ物とおぼしき傘を掲げて、この傘は誰のものかと叫んだ。誰も名乗りでないので、彼は言った。
「いないのか? 誰の物でもないのか? だったらこの傘かわいいから、先生の恋人にあげちゃうぞ。」
 1年後。彼は職場結婚した。
 そんな要らん話をわざわざすると校外に追い出されてしまうかもしれないので。そういう話はせず、ただ「卒業生が窯業室前で集まることになっているので待たせて貰っていいか」とだけ話し、許可を得た。
 向かう途中で、ジャージ姿の女子中学生の集団に遭遇。中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが。唐突に「こんにちは」と挨拶され、おもわず「ちわ」と中途半端に返してしまう。おそらくは人にあったら挨拶しろと教えられているのだろうが。しかし、自分らのことはそんなこと教えられたって絶対言うこときかないような所があったような気がする。最近の中学生は、意外と出来がよいのかもしれない。
 窯業室には誰もいなかった。卒業生も、在校生も。現在の陶芸部員の活動でもついでに見れればと思ったが、いないのでは見ようもない。そもそも、部が存続しているかどうかすら怪しい。自分らがいた頃にはもう既に、存亡の危機にさらされていた部だったから。
 その辺の話は、昔書いた桜落葉陶芸部という小説を参照されたし。ただし、これこそ本当に脚色が施されたものである。て言うか、そう言っとかないと関係者が見たら怒る。
 部屋の前で本を読みながら待っていたら、中学生男子がやってきた。前述のように中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが、しかし教員でもないむさい男がいるのは当たり前ではない。彼は「あっ」と声を出し、忍び足でその場をゆっくり離れて行った。そして角を曲がったところで一気に走り去っていく音が聞こえた。職員室に通報でもしに行ったのかもしれない。
 予め断っておいて正解だった。
 13時前。誰も来ない。日本全国が低気圧に覆われ、真冬並みの気温といわれた日である。風が吹いて非常に寒い。
 そろそろ撤収時刻を検討しなければならないなと思いつつ、ふと、あらかじめ電話なりで関係者に連絡をつけておけば、こんな当てもなく待ちぼうけることは無かったのではないかということに気づく。
 気づいた時にはもう遅い。電話番号は調べなければわからないし、電話帳のあるところに移動すれば、すれ違いになってしまうリスクもあったからだ。「私はここにいる」と書いた張り紙でもしておこうかとも思ったが、紙もペンも持っていなかったし、そもそも無関係の中学生が見たら、変な学校伝説の要因ともなってしまいかねない。私はもう、これ以上伝説になるのはごめんだ。
 それから約15分後。ようやく、一人の男が現れた。何となく見覚えはあるのだが、しかし全然関係ない人間かもしれない。お互い牽制し合うかのように無言で1分ほど立ちつくした後に、名を名乗りあってようやく、待ち望んでいた関係者であったことが判明した。
 ちなみに彼は、前述の「桜落葉陶芸部」でBのモデルとなった男である。
 しばらく二人で話しながらその場で待機していた。
 彼は東京で汎用機系のシステムの仕事をしていて、月労働時間が300時間あるのに残業代が出なくて月の手取りが18万しかないと言っていた。とりあえず転職を勧めておいた。というか、彼はこの日のために、就職して以来初めての有給休暇を取り、わざわざ東京からやってきたのである。凄い話だ。
 14時過ぎ。それ以上待ってももう来ないと判断し、撤収。とりあえず二人で近所の喫茶店に移り、「二人しか集まらなかった」というこの事態の検証に入る。結果、「15年という時間を掛けた、壮大な『釣り』だった」という結論で合意した。
 まあしかし。例え本当にそうだったとしても、別に悪い気はしない。これによって手に入れた15年の時の重み。これは、釣られたものにしか手に入れることが出来ないものなのだから。
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15年目の約束


 いよいよ明日から愛知万博開催。荒野草途伸自身は万博に行く予定はありません。が、万博絡みの予定は、一つだけ入っています。
 今から15年前。名古屋五輪の誘致に失敗した愛知県は、今度は万博の誘致に動き出し、テーマを「産業と技術」、会場候補地を瀬戸市海上(かいしょ)町の県有林一帯(現在の万博瀬戸会場とその周辺)に設定しました。
 これは地元にとっては寝耳に水の話で、しばらくは半信半疑で話題に上ることも少なかったのですが。次第に、会場予定地近くの市南部の住民から、混雑による生活被害などを不安がる声が出始めました。
 さらに、万博開催に合わせて建設する高速道路が、市東部の森林地帯を通り、インターチェンジが二つ造られるという話になって、「環境破壊ではないか」「閑静な住宅街の近くに高速道路が出来るのは困る」という声が上がり始めます。
 その上、会場予定地である海上町近辺で、天然記念物で国内希少野生動植物に指定されているオオタカの巣が確認され、環境破壊だとの声が一気に高まります。
 万博計画は、それまで政治的に目立った対立の無かった瀬戸市を二分する大問題となり、さらには愛知県知事選での争点にまで発展していきました。
 この辺の政治的な話については、荒野草途伸が2000年に書いた文書があるので、参考にしていただきたい(主観的視点で書いたものなので、若干正確さを欠く部分があることはお断りしておきます)。
 その後紆余曲折を経た後、万博のテーマは「環境と自然」になり、主会場は海上の森から南に約5Km離れた愛知青少年公園を利用することとなりました。
 まあ、そんな万博開催の経緯は置いといて。
 万博会場が最初に発表された15年前。荒野草途伸は、高1でした。既に高校生ではありましたが、たまーに中学自体所属していた陶芸部に顔を出していました。ダッテホカニトモダチイナカッタカラ。というのは1割ぐらいしか真実ではないのですが。
 そうやって顔を出していた時に、持ちかけられた話があるのです。
「15年後。万博開催初日に、またここに集まろう」と。
 その当時は、「15年後・・・30目前・・・それまで自分は生きてるのか?」などと思い、また「まあ間違いなく忘れてるだろうな」とも思いました。
 15年経った今。その約束は、少なくとも自分の記憶にはちゃんと残っていました。
 とりあえず明日は、10余年ぶりに中学校まで行ってみることにします。誰か一人でも、記憶を共有している人がそこにいるといいのですけど。
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