自民党安倍一派が嘘八百田尚樹を招いて行った「勉強会」(実際には自己満足会としか思えないが…)で、またしても沖縄の戦後史に関するデマがクローズアップされているので、自分なりにまとめておく。
まあ、自分が書かなくてもこの手の文献一杯あるから…と思って書くの控えていたのだが、やはり書かないと駄目だ。たとえ読むのが5~6人しかいなくても。
本来なら参考資料を引用しながら書きたい所なんだが、その参考資料をきちんと保管していないという愚行を犯してしまったために、「どの参考資料」というのが明示できないのは申し訳ない、というのはあらかじめ申し上げておく。まあ、だいたい沖縄県内で発行されている書籍や新聞がベースだ。
まずは、沖縄の「終戦」後の歴史から。一部の人はさすがにご存じだろうが、沖縄県内の「終戦」は、本土より約2ヶ月ほど早い。いや、実態を見れば、終戦などでは無く完全たる「大量殺戮に基づく殲滅状態の敗戦」なのだが。
この大量殺戮は、米軍によるものもあれば、追い詰められた日本軍によるものも、両方ある。また、追い詰められて心神耗弱状態に陥って集団自決した例もある。もう一体どういう状態だったのか、今のネットスラングで言えば「カオス」である。たぶん多くの人には想像もつかないだろう、自分自身、とても想像がつかない。
さて。このような熾烈な抵抗があったことから、(当初米軍は1945年の初頭には沖縄を制圧するつもりだったのだが、結局6月以降まで伸びてしまった)、生き残った沖縄県民や日本軍捕虜を大変に警戒していた。
米軍による沖縄占領は(日本本土とは違って)一斉に行われたわけでは無く、まず本島周辺の太平洋・東シナ海からの海軍艦船からの艦砲射撃で、ある程度本島を焼け野原にした後(※ここのところなにげに重要なので留意)、本島中部の石川市(現在のうるま市石川地区)に上陸後、南北に別れて展開して、米軍が日本軍に勝ったところから順次制圧・占領が行われていった。
前述のように米軍は熾烈な抵抗をした日本人を警戒していたことと、また住民が住んでいたところも焼け野原になってすぐには生活できないという理由から、米軍が設定した収容所に全住民を強制移住させる、ということを行った。
収容所と言っても、本島の当時の生き残った住民全部を収容してるわけだから規模は大変大きく、万単位の人間がそこに住んでいた。アメリカは一応は「民主主義国家」という建前を持っていたので、その何万人もいる収容所で住民自治を行わせようとし、本島に10~20くらいあった収容所を「市」と銘打って、公選首長と議会を作ろうとした。
但し、この「市」はあくまで鉄条網で囲まれた収容所に過ぎず、「市」同士の情報のやりとりは著しく制限されていた。物資も米軍から提供されていたので商売人の行き来というのもほぼ無く、全ては米軍の提供する情報によって統制されていた。
この情報統制の手段として使われたのが、「うるま新報」(後の琉球新報)である。
琉球新報という名は、戦前から存在した沖縄最古の新聞社から名前をとったものであるが、戦後に新しく出来た「琉球新報」は、元々は米軍の御用新聞として出発したものである。
ところが、新聞の記事執筆や編集にはそれなりに高度な学識が必要とされるものであり、当時の沖縄には(※日本本土もだが)それが出来る人間があまりいなかった。やむを得ず、編集長池宮城秀意の人脈を頼って、思想の是非は問わず人材をかき集める結果となった。こうして集められた人材の一人に、後に沖縄人民党委員長となる瀬長亀次郎もいた。
(※この事を以て、「沖縄の新聞は共産党に支配されている」という主張の根拠にする者もいるようである。が、そもそも戦後の琉球新報が米軍の御用新聞として出発したことを考えれば、この指摘は当たらないものと考える。)
ただ、本来米軍の御用新聞であったはずの琉球新報にある程度リベラルな記者が入ったことで、収容所「市」間の情報交換はある程度正常なものになり、収容所解放・原住地復帰運動の原点ともなった。
また、その後「沖縄毎日」や「沖縄朝日」「沖縄タイムス」(※本土の毎日新聞や朝日新聞とは直接関係ない)といった新聞社が発足し、沖縄の言論界はそこそこ報道の自由が担保されるようになった。
(尚、現存しているのは、琉球新報と沖縄タイムスの2社のみである。)
政党の話が出たので、沖縄の政治史についても触れておこう。
と思ったが、長くなってしまったので、これは
別文書に譲る。
さて。収容所「市」の話に戻ろう。
この収容所「市」は「市」を名乗ってはいるものの、鉄条網で囲まれた閉鎖集落であり、そこに収容された人々は本来住んでいた場所から隔離されていたわけである。そして、米軍の情報統制により、自分達の家や畑が今どうなっているかということは、一切知らされていなかった。
では、実際その私有地はどうなっていたのか。ぶっちゃけ言うと、その多くが米軍基地用地として無断使用されていたのである。
沖縄の米軍基地建設に関して「銃剣とブルドーザー」という言葉がよく用いられるが、戦前の日本軍が銃剣で脅して土地賃貸契約を結ばせたのに対し、戦後になってからは収容所の外で勝手にブルドーザーが走り回り、収容所に入れられている人達は自分達の土地で何が起きているかすら知らされず自分達の住居を勝手に基地にされてしまい、事後で「現実を追認しろとばかりに契約を結ばされた」のである。(しかも当時の地代は二束三文だったらしい。)抵抗しても弾圧され、中には虐殺された者もいた。
まさに略奪者、山賊行為でしか無い蛮行が平然と行われていたのだ。
右翼がよく引き合いに出す、「普天間基地の周りは田畑しか無かった」という主張がある。そして、その”証拠写真”なるものも提示されている。ぶっちゃけ、大嘘である。
普天間基地の周りが田畑しか無かったわけではないことは、前述の通りである。
そして”証拠写真”とされているものは、これは終戦直後に焼け野原にされた現在の宜野湾市周辺の様子である。
(※特に現在の宜野湾市や浦添市周辺は、艦砲射撃に加えて日本陸軍の陣地があった嘉数高地の攻防で沖縄戦有数の激戦になった場所であり、周りは草木も生えないほどの焼け野原になっていたのである。)
しかも住民は全員収容所送りにされていたのだから、その時点で人が住んでいなかったのは当たり前の話なのである。そんなときの写真を持ちだして「普天間基地の周りに人はいなかった」等と言い出すのは、事実誤認を通り越してただのペテン、詐欺である。
ちなみに、戦前の普天間地区並びに宜野湾地区についての補足。(おおむね、普天間基地の北側周辺が普天間地区、南側が宜野湾地区と思って貰って構わない。)
普天間基地のあった場所は元々結構な規模の集落があった。これは前述の通りである。
ちなみにこれについて補足すると、(現在の基地北側の話になるが)、「普天間」っていうのは普天間宮という結構大きな神社が由来であり、普天間地区というのは元々そこの門前町だった。門前町がそれなりにでかい町だってのは寺社に詳しい人(右翼なら当然詳しいはずだろう)なら当然わかるはずだ。少なくとも、「周りは田んぼ」なんてのは大嘘だってのはこれだけでわかるはずだ。
そして、この普天間門前町から南北に大きな松並木を供えた街道があり、その周囲にも集落が点在していた。戦前の沖縄でも、結構栄えていた場所だったのである。
そして、現在の基地西側のあたりから豊富な湧水があり、これを利用した田芋を育てる水田が拡がっていた。この一点をもってすれば、確かに「普天間基地の周囲は田んぼだった」という主張はあっているだろう。だが、西側の一部だけの話だ。そしてしかも、土地の少ない沖縄に於いて、この田芋畑というのは当時の沖縄の貴重な食料供給源でもあったのである。だがその大半は、普天間基地の強制造成によって、潰されてしまった。
ちなみに捕捉すると、現在も基地のさらに西側の大山地区では湧水を使った田芋農業が行われている。が、基地内部で起きている化学物質による土壌汚染によって水質が劣化し、田芋農業が危機に追い込まれている。この問題も、米軍は責任を認めようとはせず、補償どころか謝罪すらしようとしていない。
普天間基地返還が実現した後でも、本来なら米軍の責任で原状回復をすべき所を、何もするつもりは無いと公言している始末である。
(ただ普天間基地を返還させればいいという話では無いと言うことの根拠の一つである。)
そして、右翼がことさらに引き合いに出す、「危険な普天間基地の周りに勝手に人が住みだした」「危険な基地の周りにわざわざ小学校を建設して児童を危険にさらしている」という主張について。
「勝手に人が棲みついた」わけでは無いことは、前述の普天間・宜野湾地区の経緯からも理解して頂けるだろう。元々自分達が住んでいた場所を追い出されたから、仕方なくその周囲に居を構えているのである。
ついでに捕捉すると、「もっと安全な場所に移住すればいいだろう」などという弁は、もうそれこそ沖縄の実態を理解しない愚かな発言である。沖縄本島で米軍基地の影響を受けないところと言ったら、那覇以南の南部か、北部の本部今帰仁あたりくらいしか無い。当然のことながら、そういったところにも既に人は住んでいるし、ぶっちゃけ生活には不便だ。そもそも、仮にそういったところに移住したくても、移転補償など全く出なかったのだ。とりあえず近場に移動する、または近隣に住む遠戚などを頼るしか無かったのだ。
そして、右翼が錦の御旗の如く掲げる「普天間第二小学校」の問題。だが実際の所、錦の御旗どころかバカ発見器の御印なのである。
まず、人口が増えて子供が増えれば、小学校は増設しなければならない。これは大前提の知識である。まあ、右翼は頭が悪いからこんな事も理解出来ないだろうけど、一般の人は理解出来るだろう。
しかし。宜野湾市は市域の大半、しかもど真ん中を普天間基地が占領しているから、小学校を建設できる場所など限られている。特に普天間第二小学校のある辺りは、数少ない普天間宮門前町の区域として残っている場所で商店や住宅が既に密集しており、小学校を建設できる場所など限られている。そこでやむを得ず、普天間基地に隣接する場所に土地が確保出来たので、そこに小学校を建設した。
しかし、やはりあまりにも危険すぎるということで、もっと北側の「西普天間地区」(※米軍専用の住宅地で、普天間基地とは別物)の一部を返還させて、そこに小学校を移転させようという話が持ち上がった。しかし、そこには地権者(軍用地主)がいるので、彼らから土地を買い上げないといけない。米軍基地の地代はおいしいので、軍用地主は高値で無いと土地を手離そうとはしない。
そこで、宜野湾市は国に土地購入費の財政援助を求めた。ところが国は、当時の宜野湾市政が革新市政であったことを理由に、これに何かと難癖を付けて、財政支援を拒否してしまった。その間に校舎が老朽化して建て直さないとヤバいということになり、結局元の危険な場所で校舎を建て替えざるを得なくなってしまったのである。
つまり、国(自民党政権)が、普天間第二小学校の危険性をそのままにしたのである。
ところが右翼は、これらの事実を完全無視し、それどころか全くの真逆のことを匿名掲示板やアフィブログに書き立てている始末である。
さて。現在の安倍政権は、「普天間の危険性除去」を辺野古新基地建設の大義名分としている。
そもそも辺野古新基地が出来たからと言って普天間の危険性除去が出来るのか自体が甚だ疑問なのであるが。それを脇に置くにしても、「現在の普天間の危険な状態を、詭弁を使ってそのまま辺野古近辺に持っていく」ということには変わり無い。
尚捕捉しておくと、辺野古辺野古言われるが、実際影響を受けるのは辺野古地区だけでは無い。むしろ、辺野古より北側の名護市二見以北10区の方が、影響は深刻なのである。そして、これらの二見以北10区には、(基地反対派だからというだからか)まともな補償どころか説明すらろくすっぽ行われていない。
(ちなみにこの辺りは、国内でも有数の風光明媚な場所で、これらをウリにしたリゾートホテルが幾つか存在するのだが、辺野古新基地が出来たらこれらのリゾートホテルは当然全滅で地元民はほぼ全員失業である…ということは
以前にも書いた。基地で雇用が増えるなどというのは、真っ赤な嘘なのだ。)
尚、この辺野古や二見のある名護市東海岸よりさらに北に東村という村があって、米軍がベトナム戦争のような住民掃討を想定した訓練施設を建設しており、それに付随した形で高江という場所にヘリパッドを建設している。これに対する反対運動もあるのだが、日本政府は反対運動弾圧のために、全然関係ない運動に参加してもいない地元の小学生まで刑事訴追するというキチガイ行為まで行っている。
先の沖縄県知事選で翁長現知事が高江基地反対を公約に盛り込んだことでようやく他県からも注目を集めるようになったが、それまでは殆ど注目も無く、ひたすら黙殺されてきた。
これらの事実。殆どの人は認知していなかっただろう。
何故君たちは知らなかったのか。
率直に言って私は、「お前らが知ろうとしなかったからだ」と言いたい。
右翼のデマで溢れた匿名掲示板や、それを自民党サイドに都合よくまとめたアフィブログばかりを「ネットの正しい情報」とばかりに読みあさり、沖縄からの声や、多少なりとも理解のある左翼側からの意見には、耳を塞いでしまう。聞こうとすらし無い。ただサヨクサヨクと鼻で笑うばかり。
そういう態度が、現在の嘘と虚言にまみれた歪んだ社会をつくっているのだ。
そして、これは何も沖縄問題に限らない。派遣やワープワ、長時間労働、セクハラを通り越した性奴隷化の横行と言った労働問題にも同じ事が言えるのだということを、明言しておきたい。
日本人は真剣に反省しろ。
煽りでは無い。本気の怒りを以て、私はこの言葉を全ての日本人に投げつけたい。