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人権宣言と演劇とクロちゃんと


 スタリラで西條クロディーヌの誕生日ということで、フランス革命と憲法と演劇について書いていたら、朝になってしまった。

「スタリラ」シアター画面より

 そもそもスタリラ、というかレヴュースタァライトは「演劇」がテーマのコンテンツであるが、この演劇はフランス革命を初めとする世界的な人権獲得闘争と、それを成文化した各国憲法を抜きにしては語れない。

 そもそも、スタリラ初期に登場した「三銃士」はフランス革命直前のフランス王室を舞台にした物語である。
 また宝塚歌劇の演目としても有名な、池田理恵子の漫画「ベルサイユの薔薇」もフランス革命初期が舞台である。このように、演劇とフランス革命は題材面でも縁が深い。

 フランスの歴史は革命の歴史であり、それは王制と共和制の闘争に飽き足らない。1871年にはプロイセンとの戦争の結果発足したパリ市民の自治政府(パリ=コミューン)が後の第3共和制政府との間で(共和派同士の)内戦となり、結果パリ=コミューンが滅ぼされたという歴史もある。一方で、同じく内戦から生まれた第5共和制の初代大統領ド=ゴールは労働者と学生の反独裁運動によって倒され、現在に至る民主共和政体の確立へと繋がっている。

 このような歴史的経緯から、フランスでは自由とは血の上に勝ち取ったものであるとの意識が強い。現在もパリで続いている「黄色いベスト運動」も、国家への抵抗が市民の権利との意識から運動が拡大したものである。
 フランスでは伝統的に、国家が市民の自由を侵害した際の「革命権」が市民の権利として保障されている。(ちなみに、日本敗戦時にフランスは日本の新憲法にこの革命権を入れるよう要求したが、最終的にマッカーサーによって拒否された経緯もある)。

 この点は、最終的に流血を伴わない「名誉革命」によって政体を確立したイギリスや、敗戦によって国家体制の転換を余儀なくされたドイツや日本とは大きく異なる点である。
 一方で、独立戦争によって民主共和制を獲得したアメリカは革命権という考え方に於いてはフランスと意識が共通しており、保守派の共和党支持者が主張する「銃の所持権」も、元を辿ればこの革命権の考え方が根底にある。

 フランス革命初期の1789年「人間及び市民の権利の宣言」通称フランス人権宣言がフランス国民議会で採択された。これは、イギリス権利章典、アメリカのバージニア権利宣言と並び、自然権(天賦人権)に基づいた国家基本法の礎となった。
 だが自然権思想は国家からの人民の独立を保証するに留まるものであり、個人が生存していくための手段の確保は自己責任であるとの思想が色濃く残っていた。
 国家が人として生きることを保証する「社会権」の規約化は、1919年ドイツのワイマール憲法、さらには1947年日本の日本国憲法の制定を待たねばならなかった。

 日本国憲法は、(これは元々は誤訳が原因との説もあるが)現在に至るまで主要先進国にも殆ど規定されていない「表現の自由」を憲法に明記していることが特徴であり、自然権という意味でも日本国憲法は当時の世界最高水準の人権規約であった。

 一方で、その日本国憲法制定から5年が経過した1952年に「東大ポポロ劇団事件」という「国家からの人民の独立」を問われる事件が起きた挙げ句、国家三権の一つである司法の最高府たる最高裁が国家からの自由を否定する愚行を犯すという事件も起きている。これは、当時の日本が世界最高水準の憲法を保持しながら、国民意識としては社会権のみならず自然権すら根付いていなかったことの証左である。

 演劇は演目によって政治的色彩をたぶんに含みがちであることから、日本ではその後も、公共施設の利用等に於いて数々の政治的衝突を引き起こし、憲法論争の火種となっている。

 演劇は、人権や憲法と無縁ではいられない。そういう宿命を持った芸術なのである。

 さて。国家からの人民の独立を成文憲法として完成させ革命権を規定したフランスと、経緯はともかく現代社会の発展に合わせより高い水準に人権規約を高めた憲法を持つ日本。一方で、未だ成文憲法を持たず「国王との契約」という形で人権を担保しているイギリス。
 西条クロディーヌと、愛城華恋と、神楽ひかりの3人の立ち居振る舞いに、これらの国の人権擁護と憲法、革命権のあり方を重ね合わせるのは、考えすぎであろうか。


ぷらねたりあん・れびゅー


 Planetarian発売からもうすぐ二ヶ月も経とうとしている今頃にレビューなんて時期はずしだとは思うのだが。何故か自分とこのメインPCにインストールができなくて、読むの自体が遅れてしまっていたのだ。
 まあそんなわけで、レビュー。
 触れ込み通り、SFである。SFというと最近はえらく幅が広く捉えられてしまっているようで、中にはAIRがSFだとか言い出す人までいる世の中だが。Planetarianはそういうのではなく、正当派のScience Fictionである。
 大まかな内容は、世界大戦後、核と細菌兵器によって汚染された世界で、旧文明の遺物を探し回ることを生業とする「屑屋」が、侵入した廃棄都市で、ロボットのプラネタリウム解説員「ゆめみ」と出会い、彼がそれまで見たことのない星空を見せられる・・・・というものである。
 悲愴的な世界観が示すように、重い内容を含んだストーリー展開である。
 SF、特に長編SFにおいてはテーマ性というのが非常に重要であり、それ故に時として内容が政治的な意味合いを帯びてしまうことすら少なくないものであるが。本作に於いても、そのテーマ性というものは十分に見ることが出来る。
 内容についての詳細な説明は省くが、ロボットと人間の関係、技術の発達と文明の行く末、そして星を見る・見せるということの意味。そういった比較的重いテーマに対して、作者涼元祐一氏なりの取り組みを込めていると言えるだろう。
 ただ一つ難を言えば、複数のテーマを一つの作品に詰め込んでしまっているためか、その訴えようとする事が見えにくいということが言える。
 特に主人公の「屑屋」の心理描写があまり多くないために、その行動に時として不可解なものを感じることもある。これは、ダウンロード販売故に容量に厳しい条件が付き、文章の内容として心理描写よりも情景描写を優先せざるを得なかったということもあるのだろう。とはいえ、それ故に読み手に書き手からのメッセージが伝わらないことがあれば、それは悲しいことである。
 また、細かいことであるが。ラストで「ゆめみ」が、バッテリー残量が殆ど無い状態で、ホログラム投影を行うシーンがあるのだが。ホログラム投影というのは大電力を消費するものであり、いつバッテリーが切れるかわからない状態でそんな行動を取るのは、ちょっと理不尽ではないかと感じた。
 SFだからといって必ずしも科学的考察が完璧である必要はないのだが。直前の戦闘シーンの描写が克明なだけに、違和感が大きく、残念だった。
 まあ、なんであるにせよ。決して悪い作品ではない。千円という価格も、ハードカバーの新刊を買うことを考えれば決して高いものではない。SFが好きな人になら、一読の価値はあるだろう。
 ところで、某葉鍵板で知ったのだが、“Planetarian”が、日本プラネタリウム協会のWebページで紹介されているようだ(ココ)。
 従来のゲーム作品とは一線を画すとは言え、Key作品が、学術関係者などにも知れ渡り、それが真っ当なWebページでの紹介を受けるようになる事自体、Keyというものが社会に受け入れられたことの一つの現れといえるのではないだろうか。


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