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2017年末最後のコメント


自分にとってのこの1年って…なんだろう。去年が自分の人生で2番目か3番目に入る厄年で、むしろ過去の最悪経験があったからこそ逆に乗り越えられたなあと、1年遅れで振り返るレベルの厄年。だからいい加減少し休ませてくれという1年でしたね。
休息と断捨離の1年、ってとこかなあ。

だから今年1年で無くしたものについては、基本悔いはないですね。というか、去年の時点でもう失うものが何も無い状態に追い込まれましたし。
ん?まだなくしたと認識してないものは、当然悔いもヘッタクレもないよ?


荒野草途伸の2013年を反芻する(Twitterより)


この4年間、どこまで合っていてどこで道を間違えたのか振り返るための作業の一環。
とりあえず2013年分まで。
Google+分は含まんでいない。


じいちゃんと雪風


 熊本というと、ボンタンアメを思い出す。母方の祖父が昔繊維工場の人事部長をしていて、求人の為良く熊本に行ってお土産にボンタンアメを買ってきていたとかで、母親も私もよくボンタンアメを貰っていた。

 その祖父が海軍で駆逐艦乗りだったという話を以前Twitterでした。 


 その続きに当たる話である。

 昨年秋に2年以上待たされてようやく艦これに登録できたこともあって、この駆逐艦って具体的にどれなんだろうと思って、ちょっと調べてみた。

 私自身や、母親経由で、祖父から聞いた話の内容は、このようなものである。

・一度も撃沈されたことが無かった。
・戦艦大和と同じ艦隊にいたことがある。
・艦内で新聞を発行していた。
・戦闘中に監視員が操舵士の肩を蹴って面舵取り舵の指示を出していた。
・潜水艦を見つけると、すっ飛んでいって爆雷を投下して、速攻で逃げて戦艦の陰に隠れていた。
・米国艦船と戦闘終了後、沈む米艦相手に敬礼代わりの霧笛を鳴らしたところ、相手からも沈む直前に霧笛が帰ってきた。洋上に浮かんでいる米兵がいたが、下手に助けると捕虜収容所で酷い扱いを受けるので、缶詰などを投げてその場を去った。
・米艦隊の襲撃を受けた際に、全速力で入道雲の中に逃げ込んで難を逃れた。
・沈んだ他艦の救助した兵士が結局死亡した際に、棺桶がないので代わりに筏を組んで棺桶代わりにして、水葬した。
・どっかの島でサトウキビを大量に買い込んで予備食料にしていた。
・(自決用の?)手榴弾が艦員全員に支給されたが、外洋に出るとそれで爆弾漁をして魚を捕っていた。
・敗戦直後はイギリス軍の捕虜収容所にいた。

 これらの話を元に艦これwikiやwikipediaを調べたところ、どうやら「雪風」で間違いなさそうという結論に至った。

参考:
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki*:http://wikiwiki.jp/kancolle/?%C0%E3%C9%F7
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A2%A8_%28%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%29
 これらの記載を基に検証すると。

・一度も撃沈され無かった
 →駆逐艦で敗戦まで生き残ったのは響と雪風のみ。
・戦艦大和と同じ艦隊にいたことがある
 →沖縄戦に向かう大和に雪風が同行しているとの記載あり。
・艦内で新聞を発行していた。
 →敗戦後雪風が引揚げ船として運用されていたときに、艦内新聞を発行していたとの記載あり。
・戦闘中に監視員が操舵士の肩を蹴って面舵取り舵の指示を出していた。
 →艦長が目視で砲弾を回避する為航海長の肩を蹴って指示を出していたとの記載あり。
・潜水艦を見つけると、すっ飛んでいって爆雷を投下して、速攻で逃げて戦艦の陰に隠れていた。
 →(特に記載を見つけられず)
・米国艦船と戦闘終了後、沈む米艦相手に敬礼代わりの霧笛を鳴らしたところ、相手からも沈む直前に霧笛が帰ってきた。洋上に浮かんでいる米兵がいたが、下手に助けると捕虜収容所で酷い扱いを受けるので、缶詰などを投げてその場を去った。
 →レイテ沖海戦の米駆逐艦ジョンストンとの話のことか?
・米艦隊の襲撃を受けた際に、全速力で入道雲の中に逃げ込んで難を逃れた。
 →(特定の記載を見つけられず)
・水葬
 →白木の棺桶で水葬したとの記載あり。これは流石に(戦時という状況を考えて)Wikipediaの記載が間違いと考えるのが自然。
・どっかの島でサトウキビを大量に買い込んで予備食料にしていた。
 →(特に記載を見つけられず) 
・(自決用の?)手榴弾が艦員全員に支給されたが、外洋に出るとそれで爆弾漁をして魚を捕っていた。
 →(特に記載を見つけられず)
・敗戦直後はイギリス軍の捕虜収容所にいた。
 →復員輸送艦絡みの話か?

 「一度も撃沈され無かった」という時点で既に二択になってしまうところが、正直絶句したが。ともあれ、「響」の方も調べたが全然エピソードが違うので、雪風で間違いないだろう。

 ちなみに、艦これでは荒野草途伸は雪風はまだ入手していないので、ゲーム中での雪風の扱いがどういうものなのかはあまりよくわからない。なので、祖父の話を含む史実のみについて語る。

 これらの話を聞いたのは、殆どが自分がまだ小学生自分の頃の話で、(記憶が確かなら)主に従兄弟がせがんで話をしていたことだったように思う。
 そうやって昔話をしているとき、爆弾漁だのサトウキビだのの話をしているときは割と楽しそうに話をしていたものだった。特にサトウキビは随分思い入れがあったのか、サトウキビがスーパーで売られているのを見ると買い込んできて、(当時もう既に糖尿病を発症していたので)祖母に怒られていた。

 が、戦闘の話はそんなに多くを語ったわけでは無かった。
 唯一詳しく話してくれたのが、アメリカ艦(駆逐艦ジョンストン)とのエピソードである。
 爆弾漁だのサトウキビ買い込みだのをしていたので、食料には割と余裕があったのだろう。wikiを読んでいると随分たくさんの兵士を救助したようだが、これも食料に余裕があったからこそ出来たことだったのだろう。(別で読んだ文献によると、助けて自艦に乗せると食料がなくなるからと沈んだ他艦の兵士を見殺しにしたケースもあったらしい。)

 (wikiによると)唯一の例外が、沖縄に向かう大和に同行していたとき、だったようだ。
 「宇宙戦艦ヤマト」が大人気だった時代だったので、従兄弟としては大和の話を聞きたがっていたが、祖父は逆に大和との話は殆ど語ろうとはしなかった。ただ、「大和はとにかく大きかった」としか語らなかった。
 ただでさえ大和撃沈の際の凄惨さは文献を当たれば簡単に伝わってくるほどのものである。加えて、それまで遭難兵は基本救助してきた雪風が、大和の時だけは見殺しにせざるを得なかったのだから、それは相当な精神的な過酷さだったのだろう。

 余談になるが、私が琉球大学に合格して沖縄に発つ前に祖父母の家を訪れたとき、祖父は部屋に引き籠もってしまって会ってはくれなかった。今思えば、「沖縄行き」というその言葉自体に、トラウマを持ってしまっていたのだろう。ただ、その当時の自分は、その事に全く気づくことが出来なかった。

 わからなかったと言えばもう一つ。小学生時分に従兄弟と話を聞いていた頃、同じ船の乗員は全員生き残ったという話を聞いたとき、私はこう尋ねた。「じゃあ、陸軍より海軍の方が安全だったの?」と。祖父は一言だけ答えた。

「船さえ沈まなければね…」

 その言葉の意味も自分には当時は理解出来なかった。というか、この文章を書く為の調べ物をして、ようやく気づいたバカタレなガキである。

 その祖父も、5年半前の2010年に亡くなった。奇しくも、私が沖縄県知事選の支援にのめり込んでいたときである。
 ただ、亡くなる直前に面会することは出来た。その時点で医者からはいつ死んでもおかしくない状態から半年以上経っていると言われている、と聞かされていた。面会した祖父は眠っていたが、私が病室に入ると目を覚ました。何か言葉を発そうとしていたが、それが何かはわからなかった。ただ、最後の最後まで、生きようとしていた。


れもたろとの諍いについて。


(※れもたろによる荒野草途伸への鍵点参加妨害についての経緯はこちらをご参照下さい

「れもたろ」と私との諍いについて、鍵っ子連中の間でだいぶ(私の名誉を損なう形で)誤解が蔓延しているようなので、私自身も自分の名誉を守らなければならないので、経緯と事実を記しておく。

別の人宛のメールから抜粋したものなので、そういう文面になっていることはご容赦願いたい。


 

今から12~3年前に、私はカフェスタという当時あったSNSにいまして、
そこであるプロの占い師さん(当時40ぐらいでしたので、今はもう50過ぎてると思います)
と知り合いました。ある日、その占い師さんが、
自分に弟子入りしたいという人がいて困っている、話聞いてると
どうやらアニメとか好きみたいだけど自分そういうのよくわからないから
代わりに話聞いてくれないかと、頼まれて、ログを見に行きました。

それが、れもたろでした。

その後、二人で話を聞いているうちに、やっぱり自分は絵が描きたいという話になり、
しかし離れて久しいし最新のジャンルも実はよくわからないし、
誰かの挿絵を描くところから始めたい、と言っていたところ、
折しも新しいパートナーを探していた鈴木このりさんと知り合い、
鈴木弐番館結成、となりました。

私はこの経緯をずっと見ておりましたし、このりさんがWebサイトを立ち上げた際には
二番目か参番目くらいに掲示板に書き込んでおりますし、
コミケ初参加の際にはスペースまで行くという約束もしておりました。
(但しこの約束は、私が休みを上司に潰されたことで、結局果たせずじまいでした。)
コミケの約束は果たせなかったものの、当時の関係もあることから、
関係は維持出来ているものと私は思い込んでいて、
「はるかな!2」でれもたろが描いた際には、メールを送っています。
(ただこれは、どうも迷惑メールフォルダに行ってしまった可能性が濃厚のようです。)
その後Twitterで見かけてフォローも何度かして、
カードミッションでも挨拶を送ったのですがたのですが、ずっと完全無視されており、
Twitterでもリプはたまに返ってくるもののどこか他人行儀で
頭を捻っていたところに、去年の秋に結平明日さんに
社会人がどうのと頓珍漢な説教を垂れておりましたので、
昔の付き合い無視するようなお前が何を偉そうなことをとリプ送ってブロックしたところ、
逆ギレしてブロックし返されてしまい、それで一気に関係が悪化しました。
その後、私が使っているなりきり垢の方からクレームを入れたところ、
ブロックは解除しないが正体は明かせ等とあり得ないことを散々喚きちらしていましたが、
先述の占い師さんの件を持ち出したところ、さすがにそこは嘘はつけなかったのが動揺しだして、
しかしどうあっても私と昔の知り合いだったことは認めようとせず、
私もなりきり垢だったこともあって、何か彼女なりの事情があるのかもしれないと思い、
改めて関係を構築し直すということで、その場は折れました。

その直後に、例の笹桐本の話が出ましたので、
関係再構築の第一歩という意味合いもあって、参加させて頂きました。

しかし、結局その信頼は土足で踏みにじられる結果に終わりました。
「企画が終わったからリムーブします」(要約、実際はもうほんと慇懃無礼というのはこういうのを言うのだよと教科書に出来るような文面)をTwitterのDMで送りつけてきて、私が「どういうことですか?」と訊いているのも無視して、そのままリムーブされてしまいました。
以上のような経緯になります。

みなさん、このような経緯の詳細(特に占い師さんの件など、このりさんも知らないかと思います)を
知らない為か、私が嘘つきで非常識な人間であるかのような言動を
とってくるものもたまにいますが、まるで逆である、という事は強調しておきます。


誰も彼も、人の話を全く聞こうとしやがらない。

 


聖なる夜クリスマスだし折角だから思わずときめいてキュンとしちゃうような恥ずかしくて身悶えしちゃうような寒くても心がほっこり暖まっちゃうような彼氏彼女嫁旦那とのラブラブなクリスマスの思い


具体的な商品内容は書かないけどリトバスEXが出た後ようやく最初に出た佳奈多のグッズがあったんですけど発売が年明けだったもんですからクリスマスにはまだ届かなかったんですね、だからクリスマスの夜はオフトンの中で身悶えしながらときめいてキュンとしてラブラブな日々を想像してましたよ。あ、好きな寿司ネタはえんがわです。
  #聖なる夜クリスマスだし折角だから思わずときめいてキュンとしちゃうような恥ずかしくて身悶えしちゃうような寒くても心がほっこり暖まっちゃうような彼氏彼女嫁旦那とのラブラブなクリスマスの思い出でも語って行こうぜ無い奴は好きな寿司のネタでも書いとけ


19年前


19年前。浪人生。時の政権は村山内閣。センター試験の翌日、阪神大震災。2月、荒野草途伸琉大受験、初沖縄入り。3月上旬、琉大合格。合格したのは他に神戸の甲南大学1校のみ。前年夏には松本サリン事件、この年3月に東京地下鉄サリン事件。地下鉄サリン事件の当日、琉大入学手続きのため沖縄に飛ぶ。3月27日、荒野草途伸二十歳。翌4月の統一地方選、沖縄転居が決まっていたため投票出来ず。初投票は7月の参院選に持ち越し。愛知万博反対派の酒向英一氏は惜敗。当時セーラームーンはSシリーズ、最終回を見て沖縄に転居。SSシリーズは10月のQAB開局まで見れず。6月、社会学の課題でHT君・iAcnと共に沖縄県平和祈念資料館に。9月、在沖米兵による少女暴行事件が発生。地元紙がすぐに載せなかったため同級生誰も知らず、わざわざ朝日取ってた自分だけが知ってた。革マル系自治会メンバーだったNさんに新聞もってかれそうになる。10月21日、沖縄県民総決起大会。同じ日に物理学科の懇親会。iAcn飲み過ぎで潰れる。翌日行政書士試験、復活したiAcnに送って貰う。12月、行政書士試験合格。Windows95日本語版発売。当時社会党は新党名を公募していた。冬休みは短いので実家帰らず。というかシムシティにハマって帰れる状態じゃ無かった。

 翌年1996年、村山内閣は退陣し橋本内閣に交代した。SACO合意などの実績は残すものの、沖縄をめぐる政治は長い迷走の時代に入る。1996年に行われた小選挙区比例代表並立制導入後最初の総選挙では、新進・民主両党が低迷する中、共産党が小選挙区2議席を含む26議席を獲得し躍進した。
 
 
 そして19年の月日が流れた。

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変化を受け入れられる人間が最後には勝つんだろうね


 一年ぶりの沖縄は、何も変わっていないように見えてしかしその実、少しづつ何かが変わっていた。
 何もかもが変わらずにはいられないです。(古河渚)
 その中でも特に衝撃的だったのが、ローソン琉大北口店である。
 日常の愚痴に書いてあるのだが、荒野草途伸はかつてローソン琉大北口店でバイトしていた(参照)。どうでもいいが、鍵の世界にはまりこんだのもこの時期である。
 その当時の琉大北口店のオーナーはUさんという男性だった。その奥さんが店長を勤めるという体制だった。
 いろんな意味でお世話になった。警察とか。
 そのローソン琉大北口店が、移転していた。ライバル店であったココストア琉大北口店(当時はホットスパー)の場所がローソン琉大北口店になっており、元ローソン琉大北口店があった場所は空き家になっていた。
 最初はそれを見たとき、ついにココストアがローソンに破れたのか、と思った。
 久々に来たことだし、ちょっと覗いてみて、もしオーナーか店長がいたらちょっと挨拶でもしていこうかと思い、店内に入った。レジに丁度、「オーナー」の札を掲げた人がいた。しかしその人は、Uさんではなかった。
 「?」と思い、「ここのオーナーって、Uさんという方じゃなっかですか?」とその人に訊いてみたところ、「ここは半年前までココストアだったんですけど、ローソンに変わって店名も引き継いだんですよ」ということだった。
 つまり、実態としては、無くなったのは「ローソン琉大北口店」の方であって、「ココストア琉大北口店」の方が生き残った、と言うことになる。いや、これが正確な表現かどうかわからないが。
 とりあえず、現ローソン琉大北口店のオーナーさんは、Uさんのことは全くわからないという。
 自分が勤めていた当時から「何か別の事業をしたい」と言っていたし、別の業種に転業したのかもしれない。もしかしたら、店自体は残っていたが、オーナーはとっくの昔に変わっていた可能性すらある。その辺は全くわからない。なにしろ、就職して以来一度も足を運んだことはなかったから。
 バイトと言えば、当時琉大東口にあった赤マントという店(ここは1998年に店をたたんでしまった。参照)のTさんというオーナー店長も、当時のバイト仲間も、全く音信不通である。当時は、メールはおろか携帯すら普及していない時代だったから、連絡先の交換とか出来なかったんだよね…。
 そんなわけで、ちょっとセンチメンタルな気分になってしまった琉大訪問だった。ちなみに琉大自体も、生協とか学生会館あたりが昔と変わっていた。
 教官の話によると、自分たちの世代と今の学生では、ずいぶんと違うらしい。良くも悪くも、とんがってないのだそうだ。琉大と言ったら、異色の学生が多いことで全国的にも有名だったのに…。
 まあ、それが時代の流れというものなんだろうね。寂しいけれども、仕方がない。
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DON KAN サラリーマン


 「巫女みこナース 愛のテーマ」が会社で大ウケしたので、次は「撲殺天使ドクロちゃん」をカラオケで歌ってやろうかと思っているのですが、内なる良心がそんなことはやめろと叫んでいます。
 鈍感力で克服だ!
 さて。鈍感力で思い出したのだが、自分はかなり鈍感力が強いと思う。特に恋愛関係の鈍感力は、他に類を見ない程の強力さがあるという自負がある。
 それを裏付ける過去の逸話を一つ。
 まだ大学生の頃。後半の、引きこもっていた頃の話である。とは言え、週2,3回のバイトだけはちゃんと行っていたので、完全なるひきこもりとは言えなかったかもしれない。理学部棟は歩いて15分かかったが、バイト先は歩いて5分もかからない場所にあったので、その差かもしれない。当時の琉大生ならたいがい知っていたと思われる、「赤マント」という店だった。
 そのバイト先に、Yさんという同い年の女の子がいた。琉大の近くにある沖国大の学生で、背が高くて店長にデカ女と言われてた人だった。
 バイト先の店長が「俺は軍雇用員になる」と言いだして店をたたむことになった。自分は4年生の4月、ようやく通学を再開して、研究室も辛うじて決まった頃だった。
 最後の日に、みんなで赤マントでお別れ会をした。当時は琉大東口にカラオケボックスがあったので(今でもあるのかもしれないが)そこで二次会をし、そして解散という流れになったときに、誰かが言い出した。
「Iさん(=荒野草途伸)のお家が近いから、そこで3次会しよう。」
 自分は、部屋が超汚いからと断ったのだが(事実その通りだった)、先輩のDさん(参考)はじめとして殆ど全会一致で否決されてしまい、私は部屋を片づけるため先に帰るため、全力で走る羽目になってしまった。ギアスをかけられたわけでも無いのに。
 結局、たった10分あまりで連中は来てしまった。人間の棲み家ではなかった私の部屋が10分でろくな片づけが出来るはずもなく、一同はそのあまりの惨状に唖然としていた。だが、私は帰るなら今だといったが、誰一人帰らなかった。結局、男女合わせて5人くらい来た。その中に、Yさんもいた。
 途中のことはどうでもいいので省略する。まあ、ごく普通の学生のバカ騒ぎと思って貰ってかまわない。
 帰り際になって、Yさんが言った。
「けいちゃん(バイト先で、私はこんな恥ずかしい呼ばれ方をしていた)、また、来てもいい・・・?」
 私は答えた。
「部屋汚いからダメ。」
 汚いも何も、現にその超汚い部屋に彼女もいるのだから、この回答はあまりにも愚かだとしかいいようがなかった。何故、こんな馬鹿な返答をしたのかはわからない。もしかしたら、潜在意識から発せられた自分なりのギャグだったのかもしれない。
 そして彼女たちは帰っていった。
 それから2年あまり後。
 私は大学を卒業し、しかし県庁の採用試験を受けるという口実で定職にも就かず、フリーター生活を送るフリをして、Keyの二次創作の世界にのめり込んでいた。それまで恋愛関係とか本当に、全く知識も興味もなかった自分が、ギャルゲーのおかげで少々色気づき始めた頃でもあった。
 ある夏の日の、昼下がりだった。ふと、赤マント時代のことを思い出した。そして、Yさんのあの最後の言葉を思い出した。そして気づいた。
 あれはもしかして、自分の人生の中で最も、「恋人」とか「彼女」とかいう存在に近づいた一瞬だったのではないかと。
 それを、自分は、自らの手で、潰してしまったのだ。
 しかも。それに気づいたのは、2年後。
 もう手遅れだ。
 さて。私の鈍感力が如何に強いか、解っていただけましたかな?
 て言うかこんな力、一体何の役に立つというんですかねえ・・・?
 ちなみに、Yさんがその後どうなったかは、全く知りません。同い年だからもう32のはずだし、たぶんとっくに結婚でもしてんでしょうね・・・。
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そういえばあの写真はどこに


 大学生の頃、特に1年生の頃というのはとにかくヒマで、実験のレポートを書き終わると琉大東口近くの丘の上に昇って、中城湾の写真を撮りまくっていた。
 使っていたのはだいたいレンズ付きフィルムで、別に良い写真が撮れたわけでもなく、何かテーマがあったわけでもない。ただ無意味に、ひたすら同じ風景ばかりを撮りまくっていた。
 まさに、モラトリアムの為せる技である。
 それでも、その後パソコンを買いインターネットの世界に入りどんどん引きこもり果てはオタの道を歩んでいったことを考えれば。それは随分健全な行為であったように思えるから、不思議でならない。
 そんな12年近く前のことを思い出したのは、「琉大生はがき」という記事を見たからだった。
゛琉大生はがき゛ブーム 学生デザインを商品化(Yahoo-琉球新報)
 自分みたいに、無意味にかどうかは知らないが、沖縄に来て写真撮りまくっていた琉大生は今も変わらずいたということか。ただ違うのは、撮って終わりではなく、それを商品化にまで結びつけてしまったところだが。
 
 ちなみに絵はがきの公式ページというのもある。いくつか写真があるのだが、なるほど、確かに学生の頃見えた沖縄の風景というのが、そこにある。
 今現在既に沖縄に戻ってきて、一年経って、「あの頃の空と今の空は、何かが違う。沖縄は変わってしまったのか」等と思うこともあったのだが。違うのだ。変わってしまったのは、きっと自分の目線の方なのだ。
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8年の時を経て


 琉大の恩師のH教授が去年の3月に退官されたので、自分が旗振りをして当時研究室にいた面々でささやかにお祝いをした。
 正確には、自分はH研に所属していたわけではなく、同じ講座で学生用の部屋を共有していたS研の所属だった(※1)。だが、まあ事実上同じ研究室のようなものだし、お世話になった事実には変わりないのでと、両研究室合同で食事会を企画したのだった。

(※1 たぶんこの辺の事情は、琉大物理学科独特のものだったと思われる。
 一般的な大学の研究室というのは「講座」と同一であり、その中に教授-助教授-講師-助手というヒエラルキーを持った、複数の指導教官がいるものらしいのだが。当時の琉大物理学科の場合は、講座は少なくとも学生にとっては名目的なものとなっていて、殆どの教官が独立した「研究室」を持っており、単独で研究室の学生の面倒を見るというスタイルが採られていた。)

 1999年の卒業であるから、殆どのメンバーが8年ぶりの再会であった。否、殆どと言っても自分を含めて4人だったし、うち一人は大学院まで出ているのでもっと短いのだが。自分も、半年留年というよくわからんことをしたり、その後もH先生とは年賀状のやりとりをしていたり(S研なのに)と、交流があったので、8年ぶりという感覚はなかった。
 そういう事情もあって、今回自分が旗振り役をしたというのもあるのだが。(S研なのに。)
 実際の所もっと参加対象者は多かったのだが。最初に話が出てから半年近く経っている上に2週間切って突然日取りや場所を決めたので、結局4人だけになってしまった。
 まあでも、とりあえずH先生には喜んでもらえたようなので、それは良かった。
 ちなみに、今回の会合は首里にある「あしびうなぁ」という店でやったのだが。この店は、学生時代交流のあったKさんという人から教えて貰ったものだ。そのKさんも、長らく(6年ぐらい?)音信が途絶えていたのだが、たまたまiAcnがmixiで見つけ出して連絡を取った過程で、この店を教えて貰ったものだった。
 人脈が無いのが自分の短所だと思っていたのだが。昔の人脈というのは案外こうして息づいているものなのだなと、実感させられた今回のイベントであった。
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