人の生命というもの




二月二十七日早朝、
ネットでお世話になっていたサトキチさんという方が無くなった。
私がこれを知ったのは、ようやく昨日の晩になってからだった

 11時間というときをかけて、ようやく精神的に落ち着き、自分の中で整理が出来てきたので、この文章を書き記す。
 人が死ねば悲しい、悲しいときに人は泣く。こういう当たり前のことが出来ない人間だと、自分では思っていた。自分を悪役に仕立てる演出といえばそれまでだ。実際そうかもしれない。だけどそんな事はもうどうだっていい。欺瞞は破れ、私は悲しい。それだけだ。
 私の身近な人が死ぬのは、これで二度目である。初めは七年前。高校入学が決まった年、叔父が亡くなった。そのとき私は、「叔父が死んだ」という事実は事実として受け止めて履いた。そう、単なる事実として。実際のところ心の中では、叔父が死んだという実感がなかった。「人の死」というものを実感できなかった。ずっと死をとらえることが出来ないまま、ただ時だけは無慈悲に経過してゆき、いつの間にか叔父がいない状態が当たり前のこととして周りは動いていた。だから私には、悲しみの感情がなかった。
 このことに気づいたのは、かなり後になってからである。そのとき私が自分に対して下した結論は、「自分は死に対して悲しみの感情を持たない、冷酷な人間」というものだった。事実に基づいた判定。そしてこれから、「自分は、もし家族が死んでもそれを笑って見ているような行為をするのではないか」という考えが頭をよぎり、そしてそれは私の心の中で支配的な位置を占めるようになった。確定。
 そして今日、私は泣いた。
私がこの星に生を受けて二十二、三年。この二十数年の人生の中で、初めて「人の死」というものを実感した。
 どうやら私は、自分で考えていたような冷酷な人間とは違ったようだ。それどころか、ずいぶんと軟弱な人間だったらしい。風邪で体力を消耗していたとはいえ、放心状態から立ち直るのに半日も要するとは。こんなことでは、もし親兄弟が死ぬなんて事態になったら、笑って見ているどころの騒ぎではない。私は廃人になってしまうかもしれない。
 人が死んで悲しいということ、悲しみに泣く遺族の姿、そういうものがようやくわかったと思う。もちろんすべてわかったわけではない。なぜなら私は、未だ「遺族」すなわち家族を亡くす悲しみを経験したことがないからだ。

 最後にこれだけを言わせて欲しい

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