27の瞳。

 
 この文書は、27日に公開する予定である。現在日付は24日。本来27日に書くべき内容ではあるが、この日も忙しそうなので、休日に予め書いておくことにする。いわゆる予定稿という奴だ。予定稿による誤報事件として有名なものに、セイロン日食誤報事件があるが、この文書も、私が27日までに死んだり行方不明になったりしたら、「荒野草途伸27歳誤報事件」として有名になるかもしれない。ならねーよ
 ということで、27日には27歳である。今までは、なんとなく年齢や誕生日を伏せてきたが、もう伏せるのはやめた。ばかばかしい。伏せてなんになる。自分のことを男子高校生だと思いこんだお姉さんがメールをくれるようになるとでも言うのか。しかし、その「お姉さん」が25歳だったりしたら、全然お姉さんではないではないか、自分にとっては。
 というのが理由、というわけではない。伏せる理由がないことに気づいた、というのが理由である。年をとると、だんだんこういう事に気づいてしまう。無論これは成長であり、喜ばしいことであるのだが、同時に寂しく悲しいことでもある。何故なら、気づく、知るということはそれだけ感動の余地が狭められるということである。心が固定化されてしまうということである。よく、「大人はつまらない」と子供が口にするが、それは当然のことである。成長した、つまらない人間というのが則ち大人ということなのだから。どっちがいいとか悪いとかいう問題ではない。
 
 とは言え、自分は本当に成長したのだろうか。ついこの間まで、「心は思春期」などとほざいていたあれは、どこへ行ったのか。そう、そんな思春期の心を以て、夜空の星に向かって「27歳のお姉さん・・・」などと呟いていたりしたではないか。ごめん、夜空の星はうそ。福岡の夜空は星見えないから。
 まあ夜空の星はともかくとしても、27歳のお姉さんは、確かにそういう願望はあった。何で27歳か知らないけど。しかし何はともあれ、当の自分自身が27歳になってしまったのだ。ということは、27歳の女性がお姉さんで無くなってしまったのだ。これは痛い。夜空の星に向かって呟くのとどっちが痛いかはわからないが、とにかく痛い。
 
 まあしかし、痛いと感じるようになっただけましかもしれない。かつての自分は、「私の辞書に痛いという言葉は無い」とでも言いかねないほどの、傍若無人ぶりであったから。なにしろ、穴の空いたセーターを着て、教室に電気ポットを持ち込んで、研究室に毛布を持ち込んで、家で寝るというのが、私の学生生活であったから。ちなみに、今はここまでひどくはない。先日もネクタイを締めずに会社に行ったが、あれは疲れて朝寝ぼけていて小人さんに任せてしまっただけのことであって、決してわざとではない。よって問題は無い。あ、でもこの間の土曜日、穴の空いたカーディガン着て出勤してったな。あれ気に入ってるのよ。土曜日は私服OKだし。
 
 そういうわけで。まあ、人より多少遅れたところはあっても、私は私なりに成長しているわけだ。お父さんお母さん、見てください、僕はこんなに立派な人間になりました!
 
 とりあえず、27歳は32歳に変更しよう。32歳のお姉さん・・・
 
 
 
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