いよいよ佳境に入ってきました〜リトバスアニメ感想22話〜
社会主義は元々は人間が人間らしくいきられるようにという理想から生まれたものだったはずなのですが、社会主義諸国は結局人間を部品として扱うという皮肉な結果になってしまいました。では逃げ出した先の資本主義諸国は人間を部品扱いしないかというと、決してそんなことは無い。流されたり逃げたりでは安い部品で終わってしまう。崩壊して何十年も経つソ連などという題材をわざわざ持ち出してくるのには、そんな暗示があるのかもしれません。
それはさておき、先週の文章タイトルですが。銀河鉄道999で、星野鉄郎が機械帝国に捕まったときにこいつはねじに丁度良いと言って機械帝国のねじ部品にされそうになる場面がありました。先週のタイトルはそれを思い出して、歯車と対にした上でさらに「ねじ式」とひっかけて付けたものなのですが。説明不足すぎて訳わかりませんよね。城桐先生のこと非難出来ませんね。
チェルーシカさんの言葉に出てきたのは、ねじでは無く歯車ですが。「良き歯車」とは、果たしてただの部品のことなのでしょうか?
先週頭痛で書けなかった分、前置きを長くしてみました。
さて。今回は非常に濃度の濃い、重要展開目白押しの回でした。とりわけ、棗兄妹の立ち位置が重要です。クド回なのに。というのはさておき。鈴の設定は、どうやら話の根幹に関わるレベルで変更が加えられているようです。
まず食堂での小毬と鈴のやりとり。小毬の「帰った方がいいよ鈴ちゃんもそう思うよね?」という問いかけに鈴は「帰ったらきっと悲しい思いするだけ」と顔をそむけてしまいます。さらに、クドと川岸で話しているときには、「出来損ないの歯車」という言葉で鈴が顔をそむけてうつむいてしまいます。どうやら鈴は、既に本当は何が起きているかを知っているかのような言動です。いつどこでどのような経緯で知ったのかは暗示的にしか描写されてはいませんが、最後の最後まで何も知らないままだった原作とは変えてきていることは明白です。これで他のヒロインと同じ立ち位置になったという意味なのか、聡い子になって理樹を助ける側に回るということなのか。それとも…というのは今後の展開で明らかにされる、ってことになるんでしょう。
恭介とクドとの会話にも、「理樹も俺達も責めたりしない」という台詞が出てきますが、この台詞だと鈴は俺達と同格になっています。この段階で既に、何も知らないのは理樹1人だけ。となると、話の見方を再構築しないといけませんね…。
一方の恭介。今回一貫して恭介がネタバレ全開です。ネタバレは佳奈多のポジションなのに…。というのはとりあえず脇に置いとくとして。
原作では恭介は理樹の父親代わりの役を担っていて、一方で佳奈多は葉留佳の母親的ポジションに位置しています。アニメでは、特に今回の話の流れを見ていると、この辺の関係を整理統合して、物語全体の役割として、恭介=父親 佳奈多=母親というポジションをより明確化しているようにも見えます。って、こういう事書くと恭介×佳奈多派が勢いづきそうでやだなあ…。まあそれは私闘の話なのでここではこれ以上書くまい。
さて。これ以外の登場人物の動きにも、原作とは組み替えられている部分があります。理樹が美魚と葉留佳に電話しても連絡がとれない、18話でも美魚が電話に出ないという描写です。原作では鈴と女の子達との絆がまだ不十分だったという表現として使われている箇所ですが、アニメでは鈴が十分成長している為か、違う意味合いで使ってきているようです。
前半、この2人と、唯湖と謙吾が図書室で待機している場面があります。唯湖謙吾と言えば原作では恭介に反旗を翻す2人で、アニメでは18話で恭介と手を繋がなかった2人なわけですが。何故美魚葉留佳と唯湖謙吾が一緒にいるのか。原作と展開が変わってきているので、何とも言えないですねえ…。
変わってるというよりかは、「リプレイ」を繰り返した最終段階だけをアニメ化してます、って所なのかな…?
あと、かなりどうでもいい話。クドを迎えにきた外交官ナンバーの車ですが、ナンバーの外がクドに見えた。…そんだけ。ほんとにかなりどうでもいい。
ところで、エンディングクレジットでは絵本イラスト担当が「知佳」となっています。「ちか」というと、原作クドルート(はるかもですが)のシナリオ担当は城桐央(しろきり ちか)を思い出しますが。そういえば城桐先生、棗恭介放浪記のコメント欄で絵本調のイラストを描いていましたっけ。…ああ、そういうことか! と勝手に納得してしまいました。
来週でクド編終わり。残り4話。気づけばもう最終回は目前で、春が近くて、外で猫が喧嘩してうるさい。