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日の出と族と海上基地と

 
 時の刻みというものは結局の所、人の決めたルールに過ぎないわけであり、暦もまた同様である。
 今日本では西暦2006年1月2日22時8分ということになっているが、同じ地球上でも場所を変えれば時刻は変わり、また太陰暦を採用すれば日付をも変わってしまう。倫理観や通貨制度と言ったものと同様に、長い歴史を経ればもしかしたら変わってしまうかもしれない性質のものなのだ。所詮、絶対のものなどではないのである。
 そう考えると、「新年の年越しを祝って」とかいうのが凄くバカらしく思えてくるのだ。だから今まで、新年だからといって何か特別なことをする事はなかった。近年年賀状は書いていたが、これは自分の身辺が変動しやすい為、音信不通扱いにされて死亡説が流されるのを防ぐのが主目的であり、別に暑中見舞いやさくらめーるだって本当は一向にかまわないのだ。
 
 ところが今年は何故か違った。正確には去年の年末19時頃になってからであるが、唐突に「沖縄本島北部の東海岸で日の出を見たい」と思ったのだった。理由など無い。ただの思いつきである。場所までえらく具体的であるが、しかしただの思いつきである。
 そもそも「初日の出を見る」などという行為自体、日本の神道の風習に通じるものがある。だから、信条的無神論者である自分の行動としては、これは相応しくない気もした。だが、欲求は信仰に勝る。そのときの自分は、「わけもなくたった一人何も無いところへ日の出を見に行く自分」というシチュエーションに、すっかり酔ってしまっていた。
 
 バスの時刻を調べると、1/1にも関わらず5時53分発の名護東線名護BC行きというのがあった。そして日の出の時刻が7時15分。自分が現在住んでいる沖縄県浦添市から名護市まで2時間程度であるから、丁度日の出の時間に名護の東海岸に到着できる算段になる。
 名護行き決定。この時点で22時過ぎ。blogを更新したら、5時起きするためにさっさと寝ることにした。
 
 起きたのは5時半だった。
 バス停までは歩いて5分なので、間に合わないことはない。だが、眠い。ひたすら眠い。ただ着替えてひげを剃って財布とデジカメとPHSを持って家を出ればよいだけなのだが、何をすべきかが判断が付かず、5分もロスしてしまった。
 バスはほぼ定刻通りに来た。こんな日のこんな時間にバスに乗るのは自分だけかと思ったら、小学生か中学生くらいの一団が既に先客として乗っていた。その後もぽつぽつと乗客が乗り降りする。意外に需要があるらしい。実際乗るまで、広いバスの中でただ一人ぽつねんと座って運転手にこいつは何をしようとしてるんだとか思われるのではないか、と危惧していたのだが、そんな心配は杞憂であった。安心すると、抑えていた眠気がこみ上げてくる。PHSの目覚ましを7時にセットし、一眠りすることにした。
 
 
 7時に、PHSのバイブレータが震える。空が白みかかっている。そしてバスは、まだ金武町を走っていた。しまった、予測が甘かったか。途中で降りて海岸まで歩いて、日の出を見るか。だが外を見ると、東の空、海の向こうが雲に覆われているのが見えた。これでは日が昇っても、それを見ることはできない。降りてもあまり意味は無いのだ。
 なれば予定通り、名護の東海岸まで行こう。ついでに普天間基地移設先として紛争の地になっている辺野古沖も見てみたいから。そう思って、そのまま乗り続けて外を眺めていた。風光明媚とは行かないが、しかしわずかに見える早朝の海岸を通り過ぎていく様は、悪くない。しばし、旅情的な気分に浸っていた。
 
 しかしそんな気分は、すぐにかき消された。バスの脇を、1台の原付が爆音を上げながら通り過ぎていった。二人乗り、白い服。長い棒を持っている。北部連合、沖縄県北部に巣くう暴走族だ。
 原付はすぐにUターンし、走るバスを何度も威圧した。沿道を見ると数名の観衆がいる。彼らに見せつけているらしい。そして、ガラスの割れる音がした。どうやらバスのミラーが割られたようだ。バスは停車し、運転手が携帯で警察に通報している声が聞こえた。
 もう日の出どころではない。穏やかな時間は一変して、恐怖の時間へと変わった。だが、沿道の群衆はいるが原付の姿はもう無い。そして暫くすれば警察が来るだろう。しばらくおとなしくしていれば大丈夫。そう言い聞かせて、時を待った。
 暫くして、パトカーが来た。すると運転手は、降りて次のバスを待つように言った。どうやらここで運行中止らしい。ちょっと待てと思ったが、しかしここで変に騒いだら賊の仲間と思われて面倒なことになりかねない。ここはおとなしく従うことにした。
 
 降りて100m程先のバス停で、次のバスを待つ。次は50分後。震えが止まらない。寒い、確かに寒かった。だがこの震えは、寒さだけによるものではない。いつまた、先ほどの北部連合が戻ってくるかわからないのだ。
 確かに100m先にはパトカーが止まってはいる。だが、100mあるのだ。警官が駆けつけるその前に、殴られたり拉致られたりされる可能性が、決して無いとは言えない距離だ。
 自分はホットのコーヒーを買って、それを懐に入れて、バスの近く、警官の目の届く場所まで戻った。観客の一団も、もういない。時刻は7時半。日の出の時刻はとうに過ぎていた。
警察の現場検証を受ける名護東線の始発バス



二見以北十区の会立て看板その1二見以北十区の会立て看板その2
 結局目的地の二見入口バス停に着いたのは、8時過ぎだった。しかも、目的の辺野古崎が見える場所に行くには、そこからさらに歩かなければならない(地図)。辺野古崎近辺は、現在も米軍基地であるから、当然入ることはできない。大浦湾の対岸まで行かなければ、海兵隊基地の埋立移設予定地を見ることはできないのだ。
 山道を、ひたすら歩いていく。途中、いくつもの立て看板を見る。
 こういうものは得てして反対派の方が強い運動を展開するものではあるが、しかし近く行われる名護市長選の候補者のポスターまでもが反対派のものしか見られないところを見ると、少なくともこの地域では、賛成派の数は決して多くない事を窺わせる。
 


 40分ほど歩いて、ようやく辺野古崎が見える場所までたどり着いた。地図で、大浦とあるあたりである。
大浦から見た辺野古崎
 写真の右手に見えるのが辺野古崎である。先端近くに建物が建っている、その端から湾内に向けて300mほど埋め立てが行われる予定になっている。
 
 大浦湾に沿って、もう少し歩いてみた。瀬嵩というあたりで、もう一度写真を撮った。
瀬嵩から見た辺野古崎
 基地建設の是非とか、そういうのは今回は敢えて自分の意見は語るまい。地元の意見が全てだ。そう思った。
 
 
 ちなみに引き返していく途中で、こんな看板を見つけた。
大浦低速道路インターチェンジ
 大浦低速道路インターチェンジ入口。

 たぶん、基地とかそういうのとは全然関係ない。おそらくは何かの洒落なのだろう。
 
 
 その後、二見入口まで引き返してバスに乗り、名護バスセンターまで行ってコンビニで飯を買って食い、そして那覇行きのバスに乗って浦添まで戻ってきた。約2時間。車中、景色を見ることもなくずっと寝ていた。運転手からは、この人はどこで降りるつもりだろう、というような顔で見られていた、気がする。
 
 
 
 これが私の、2006年の始まりであった。
 無論最初にも言ったように、年の始まりというのは人が勝手に決めたものだから、その日に何があったからといって以降の事象に何か影響を及ぼすわけではない。だが人の心理に限れば、それによる何某かの変化というのもあるのかもしれない。
 家にたどり着いた私は、こう思ったのだった。
「俺は一体何をやっているのだ」、と。
 
 
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