沖縄の戦後政党史(簡略)


 「沖縄の戦後史を整理する」の記事の中で書いてしまおうと思った沖縄の政党史だが、結構長くなってしまって元記事の本題からそれてしまった感があるので、別記事にしておく。

 まず「琉球新報」の話で出てきた瀬長亀二郎氏であるが、元々はリベラル左派ではあっても共産主義者では無かった。琉球新報退職後米軍からの自治権拡大を掲げて「沖縄人民党」を結成するが、当初は弱小勢力で活動資金にも窮する有様であった。

 一方、これとは別に日本共産党の支援を受けて琉球共産党が結成されていたが、米軍の弾圧下の元非合法化され地下活動を余儀なくされており、公然活動の場を探していた。この琉球共産党が人民党に合流し、瀬長亀次郎という看板と日本共産党からの人的・資金的援助の元で党勢を拡大し、瀬長を那覇市長に当選させるまでに至る。
(但し市長就任後、瀬長は経済団体との会合で我々は共産主義政党では無いと明言している。)

 だが、人民党の反米軍姿勢と容共姿勢が問題視され、米軍による那覇市の銀行口座凍結などの弾圧を経て(法的根拠の無いまま)瀬長市長は解任されてしまう。が、那覇市長時代の人気を背景にその後琉球立法院議員当選を経て、国政参加選挙では人民党公認で当選。
 その後1972年の沖縄本土復帰後、1973年に沖縄人民党は日本共産党と対等合併し、瀬長は日本共産党副委員長に就任した。

 
 一方、沖縄の政治史を語る上で最も欠かせないのが、沖縄社会大衆党である。
 もともとは「アメリカ合衆国の支援の元、琉球民族の国家建設を目指す」事を目標に結成されたが、その後米軍の暴虐ぶりを目の当たりにして路線転換し、「反米軍利権」から「対米自立」「日本復帰」へと路線を変えていった。

 もともとが反米軍利権を掲げていたことから、当初は教員を中心とする労組・左派系から穏健保守まで幅広い勢力が集まっていたが、経済界や人民党との関係等から次第に保守派が離脱し、それに従って「日本国憲法に基づいた統治が行われている日本への復帰を目指す」という方針に純化して行き、教員労組を中心とした左派政党の色彩が強くなり、本土復帰運動では人民党と協調路線を取るようになった。

 本土復帰前後に日本社会党との合同を目指す勢力が離脱、復帰後も当時の委員長が民社党に走るなどの混乱もあったが、現在も都市部の公務員労組や郡部の自治会組織を中心に根強い支持がある。また、前述のように沖縄の自民党・社会党(現・社民党)・民社党(現在自民党や民主党、公明系などに霧散)のルーツともなっている。

 これに対し、米軍との融和路線を掲げていた勢力があった。ぶっちゃけ言うと米軍利権の甘い汁を吸っていた連中なのであるが、逆に米軍からするとこれほど都合のいい勢力も無く、立法院選挙では常に米軍の全面支援を受けていた。政党組織としては(戦後当初の日本同様)いくつかの政党に別れていたが、全体としては多数派を取ることが多かった。

 上記の親米軍派と、社大党から離脱した保守派が合流して結成されたのが、民主党(琉球民主党、沖縄民主党)である。(※現在の民主党とは全く関係が無い。)
 当初は親米軍・復帰反対の立場であったが、協力関係にあった日本の自民党が沖縄復帰に傾いたたため路線転換し、沖縄自由民主党と改称し、復帰後はそのまま自由民主党沖縄県連に改組した。

 尚、復帰後に大きな分裂騒ぎを何度も繰り返しており、1990年代には中央の動きに合わせて新生党(後に新進沖縄)が分裂、またその直後に社大党系のルーツを組む西銘派が奄美の徳田虎雄氏に同調して沖縄自由連合に合流した。(西銘派はその後自民党に復帰。)
 また、2000年代に入ってJC沖縄系の下地幹郎氏が自公路線に反発して離党、地域政党のそうぞうを結成した後国民新党に合流している。
 また、記憶に新しいところでは2014年に自民党県連幹事長まで務めた那覇市長の翁長政俊氏の支持議員が辺野古移設問題を巡って除名され、翁長氏共々自民党から離脱した上で共産党や社大・社民といったかつての対立党派と組んで、知事選で翁長氏が自民党の支援を受けた現職を破り、さらに続く総選挙でも県内4選挙区を独占するという事態になっている。


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